非常時のコミュニケーション

災害や事故の大小にかかわらず、自分一人の力で全てを解決できる場合を除き、災害をマネジメントするために必ず必要になるのがコミュニケーションである。ただし、これは、必ずしも携帯電話や無線による電気的な通信という意味ではない。人と人、人と物、物と物との間のあらゆる次元での情報を含む資源のやり取りを意味するものである。

コミュニケーションという語から瞬間的にイメージされるのは携帯電話などの物理的な通信手段であろう。しかし、これは情報が流れるための物理的な「土管」に過ぎない。例えば、言葉が全く通じない外国人が電話機の向こう側にいたとしよう。この場合、いくら携帯電話や衛星電話で相手とつながっていたとしても、全く情報は相手に伝わらず、相手からの情報もこちらに伝わらないということになる。

相手との間でコミュニケーションが成立するためには、まず第一に、お互いが共通言語を持っているということが必要になる。日本人と外国人との間では、通訳人を介さないとコミュニケーションは成立しないが、日本人同士であれば概ね可能である。では、日本人同士であれば、常に100%コミュニケーションが成立しているかというと決してそんなことはない。同じ日本の中でも様々な方言がある。方言とは、特定の地方や田舎に特有の発音や単語だが、方言がきつい地方を旅行すると、ほんとに同じ日本人同士でも何を言っているのかわからない。

では、方言のない標準語を話す日本人同士なら常にコミュニケーションが成立しているだろうか。よく考えてみればそんなことはない。ある分野の専門家と呼ばれる人達が、普通の人たちには全くわからないような専門用語を羅列して、専門外の人に向けて説明している場面がよくある。この場合、専門用語というのは、ある分野で働いている人々に特有の方言のようなものである。こうゆう、専門用語が多い話というは往々にして聞いていて眠いものだ。「自己満足もいい加減にしてくれ!」と文句のひとつも言いたくなる。

専門用語という範疇に入るか入らないかわからないような業界用語や企業内用語というものも非常に多いし、同じ単語でも企業によって異なる意味でつかわれているというようなことも非常によくある。例えば、「営業」という仕事は、企業Aでは単なる「販売」だが、企業Bでは「販売+市場調査+顧客サービス」などということもある。「企画」などという業務は非常に曖昧で、本来は何か新しいことを考えるのが仕事なのだろうが、往々にして複数部署の利害調整だけが仕事であったりする。

更に言えば、異なる単語が同じ意味で使用されているということもある。いわゆる「同義語」であるが、「ピンポン」と「卓球」が同じスポーツであるということぐらいなら、普通の人でもわかることだが、ある企業の「企画部」と他の企業の「総務部」が全く同じ仕事をしているということだってあるだろう。このような場合は組織の定義を聞いてみるまでは、同じかどうかは全くわからない。

このようにコミュニケーションというものは、単に携帯電話や衛星電話のように情報の流れる「土管」を用意しただけでは十分ではなく、その「土管」を流れる情報の定義のひとつひとつが、「土管」の出口で待っている人間の全てに理解できるものになっていなければコミュニケーションは成り立たない。情報の送り主と受け手の間で情報の定義にギャップがある場合、そこに「組織化コスト」が発生する。母国語が異なる外国人との間でコミュニケーションを図ろうとすれば、お金を払って通訳人を雇わなければコミュニケーションができないのと同様に、難しい専門用語を使って説明しようとすれば相手にまずその専門分野を学んでもらわなければならないので、そのための時間や教育のコストが必要になってくるし、同じ単語が異なる意味で使用されていたり、異なる単語が同じ意味で使用されているような環境では、まず、その違いに気づくまでにかなりの時間(コスト)がかかり、違いに気がつかないままの状態で、複数の人が協力して仕事をしていれば、そこに不必要な問題が発生し、その問題解決に不必要なコストが発生してくるものである。

時間に比較的ゆとりがある通常時であればこのような組織化コストはあまり大きな問題にはならない。しかし、一刻を争うような非常事態にこのようなコストが発生していると救える命が救えなかったり、致命傷を回避できたはずの物理的資源が致命傷となったりする。従って、このような組織化コストが時間のない非常時にあまり大きくならないよう、如何にして事前にそのためのコストをかけておくことができるかに非常時のマネジメントが成功するかどうかはかかっていると言える。

以前にも書いた標準化(標準化とは何か)は、そのための唯一の手段である。標準化は、それを幅広く実施しようとすればするほどそのためのコストは大きくなる。しかし、自己の組織及びイザというときに協力しなければならない組織等の間でだけでも標準化ができていれば、非常時の組織化コストはかなり下がる。

マネジメントとは、その大半はコミュニケーションの問題であろう。権限や仕事の割り当てという問題も、結局のところ、ある単語に特定の権限や仕事の内容を紐づけた「定義」の問題に過ぎない。

 

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組織化コストの削減

以前の投稿で述べたとおり、物的な標準化、例えば、乾電池のサイズや電圧、電源プラグの形、携帯電話の通信方式、消防ホースのプラグの形などを決めてしまうということは、どこの企業が作った物をどこから持ってきても使えるということであって、その物と物の間にコンバーターや翻訳装置のようなものを挟む必要がなくなる、つまり、組織化コストを削減できるということがメリットである。これらは、物と物の間のインターフェースを決めるということだが、同様に人と人、人と組織、組織と組織の間のインターフェースを決めてしまえば、どこからどのような人や組織がやってきても、同じ仕事をしてもらえるということになり、個別にその都度、人に説明をしなくてもよい、ということになり、やはり、組織化コストを削減できる。つまり、考え方は物と物の間のインターフェースの場合と全く同じである。

ただし、人を対象にした場合には物のように目に見える形や電気的な特性のようなものがないので多少わかりにくい。どうやってやるのか、ということになると文書化、マニュアル化である。やり方や権限、流れ、など、いろいろなことをあらかじめ定義し、決めておき、あらかじめ頭の中に入れておいてもらう、という方法によらざる得ない。人によってはその身についている内容が違うこともあるだろうから、全てのことを知っていれば何でもすることができるわけだが、部分的にしか知らなければ組織の一部分についてなら仕事をすぐにしてもらえるということになる。資格制度というのはそのためにある。

ISO9000などのISOマネジメント規格といわれるものは、基本的に組織の間のインターフェースの在り方について定めている。ISO9000などの認証を得ようとする組織は、規格によって定められた様々な内容の文書やマニュアルを作らなければならない。そして、それらの内容を組織の構成員(会社であれば社員)に対して教育しなければならない。そうすれば、特定の人に依存することなく、誰がやっても同じアウトプットを出すことができる、ということになる。言い換えれば、組織と人の間の組織化コストが下がっている。一個人に属する「暗黙知」に依存する必要がなくなるため、言葉は悪いが人の交換が可能ということになり、製造業などにおいては誰がやっても一定の品質の物が常に生産できる、ということがある程度保証される。従って、ISO9000などの認証を得た企業が政府の安全基準検査などを受ける場合には、生産物は全て同じ品質であるということが推定できるので、生産物ひとつだけ検査すれば十分ということになる。しかし、ISO9000がない企業の場合はバラツキがあるかもしれないので、基本的に全部検査しなければならないということになり、検査だけでも大変な労力が必要になってしまう。

米ICSなどの場合は、組織の間のインターフェースのみならず、組織と組織の間のインターフェース及び人と人との間のインターフェースも定めている。大災害などの場合には、多数の組織が災害現場で共同して作業にあたる必要が出てくるが、その場合においてもそこに集まる組織と組織の間のインターフェースを決めておけば、迅速にどんな組織でも、災害現場にできるであろうより大きな組織に組み込むことができる、ということになる。また、逆に小さなインシデントの場合にはその現場に集まる数人の人で臨時に迅速に小さな組織を編成することもできる。言い換えれば、組織と組織、組織と人、人と人の全ての間の組織化コストが下がっている。米国でICSを「プラグイン組織」とか「モジュラー組織」などと呼んでいる所以である。

米国に日本の災害時に協力してもらうということまで考えたら、米国のICSをそのまま日本に輸入してしまうのが米国と日本の間の組織化コストを下げることができるので最も理想的である。しかしながら、米国と日本の間にはすでに大きな言葉の壁が存在しており、日本語と英語の間は一対一に対応しておらず、また、制度的違い、価値観の違いなども多数あるため、コピペすれば問題が解決するというような安易なものではない。一部の企業などは横文字を輸入しても違和感がなくスムーズにいくだろうが、日本全国津々浦々、山の中の田舎まで将来的には普及させなければならないことを考えたら、最大多数の日本人にとって理解しやすい、言い換えれば、組織化コストが低いシステムを開発したほうがいいだろう。恐らく、日本国内で発生するインシデントの99%は日本人のみによって対応しているであろうから、残りの1%のために米国に合わせるというのも合理的ではない。

また、日本人は米国のものならきっとよいものに違いないと考えがちであり、なんでも米国のモノマネを今でもしたがるが、米国のICSをモノマネして組織だのを編成しただけではなぜそれがよいのかというのが、直感的には理解しにくい。米国の場合は暗黙の常識として明確に書いてない部分がかなりあるように思う。意外とドイツのICSを定めたDV100という規則を読んだ方が重要な項目が全て規定されており、どんなことを決めておけばよいのかということが、わかるかもしれない。

実際問題としては、ISO9000などがあまりうまくいっていないように、組織の標準化というのはそんなに簡単なことではない。米国でICSの普及に30年を要していることからもそれは推定しなければならない。組織と組織の間のインターフェースとして決めておくことができる要素にはいろいろあり、1%決めることも100%決めることもできるわけであるので、一体どこから入っていくのがよいのか、順序なり、長期的な戦略なりをまず検討した方がよいのではないだろうか。現在、我が国おいてもすでに様々な法律によっていろいろな規制があるが、それらはある意味、組織と組織の間のインターフェースを決めているものであるので、今現在標準化された要素が全くないというわけではない。日本の役所と役所の間の壁は外国に比べるとかなり高いのが現実であり、まずは標準化のための戦略が必要だろう。

 

標準化とは何か?

標準化とは経済学的に言えば外部経済を促進するための手段一つであり、わかりやすく言うと「組織を作りやすくするための手段」である。それも何か特別な目的のために誰でもが組織に参加できるようにするためのものである。なお、ここでいう組織とは、人と人との間のものだけではない。物と物、物と人の間でつながったものまで含まれる。

標準化と言えば、その本家本元は国際標準化機構(ISO)であるが、ISOでは実に様々な種類の物やマネジメントシステムの標準が定められている。ISOでは「標準」を

「関係する人々の間で利益又は利便が公正に得られるように、統一し、単純化を図る目的で、もの(生産活動の産出物)及びもの以外(組織、責任権限、システム、方法など)について定めた取決め。 」 (JIS Z 8002:2006)

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