那須雪崩事故→安全基準の不在が問題

今年3月の那須雪崩事故の検証委員会報告書(→栃木県HP)を読んでいて感じるのだが、「安全基準が存在しない」という視点が全く抜け落ちている。報告書の冒頭で「責任の追求は目的としない」と書きながら、全体としてはやはり主催者、高体連、講習会役員、講師、引率教員、学校運営責任者、県教育委員会などの責任を具体的に示しながらがそれぞれ悪い、という論調。要するに学校関係者みんなの責任ということにしたいのだろう。検証委員会は裁判所ではないのだから責任の追求などできないのは当然なのだが、誰かの責任にしないと収まらないという世論の風潮に配慮しすぎているように見える。現場任せで無計画とか、マンネリズムといった抽象的な精神論に原因を求め過ぎている。

一般的に責任追及と再発防止とは両立しない。過度に責任を追求しようとすると人々は責任追及を逃れようとウソの証言をするだろう。ウソの証言ばかりになれば事故の根本要因が見えてこないため再発防止が困難になる。この事故も、学校関係者全員の責任追求に終始すれば、事故の再発防止にはつながらない。

ところで、裁判所が刑事や民事で誰かの責任を追求する場合でも、そのためには当然事前に定められた守るべき基準というものが必ず存在する。それは、明文化された法律や政省令ということもあるし、あるいは、判例という過去の事例を基準にしている場合もある。事前に社会的に合意された安全基準無しに「お前が悪い」と言ってしまうのは公平性に欠く。あえて責任を追求するのであれば、冬山登りという危険な行為に対する安全基準を設定してこなかった社会全体の責任である。地方自治体やナントカ省の責任にしたがる世論もあるが、それも公平ではなく、必要な安全基準の設定を提起してこなかった世論全体の責任である。なお、そのような世論に従い社会的要請が生じた場合には当然、ナントカ省や自治体(正確には国会や地方議会というべきかもしれない。)は法令や条例を定めるのが仕事であるし、行政府はそれを実施することによって安全確保に務めなければならないのは当然の責務である。

筆者は海や空の安全確保という観点から長い間仕事をしているが、海や空の世界には過剰とも言えるほどの安全基準が国際条約や国内法という形で存在する。船長やパイロットになるためには安全確保に関する必要な知識を身につけ、試験に合格して、資格をとらなければならない。衝突予防装置の搭載義務や構造上の安全基準なども多数存在する。また、遭難という最悪の事態となった場合でも迅速に捜索救助(SAR)当局に通報できるよう緊急時の発信機(ビーコン)や標準化された通信機器の搭載も義務付けられているし、通信方法なども全て国際的に標準化されている。船員やパイロットには条約で定められた各種の注意義務がある。それを守らなかったら当然彼らは非難され責任を追求される。しかし、そのような注意義務を払っていたとしても事故は起きる。その場合でも被害を最小限に収めるよう海や空の世界では何重にも対策がとられている。

他方、冬山、夏山を問わず、登山の安全基準という観点で見た場合、そのような注意義務が具体的に明文化されているか? Noである。登山時に装備すべき装備品の搭載義務が明示されているか? Noである。確かに登山はレジャーであって、乗客等の運搬を業務とする船舶や航空機と同様に規制するのは困難であろう。しかし、政府がガイドラインという形態で示すことや山岳関連団体の自主規制ということで示すことはできるであろうし、危険度が高い特定の山に入る場合には必ずコレコレの装備を持っていきなさい、持たない人は入れません、などというように条例で規制してしまうことだって知恵と工夫を凝らせば可能である。安全確保については、自主性に期待するのはなかなか困難であり、今も昔も法令による規制という手段が必要である。

事前に定められた注意義務などの安全基準なしに、事故後に現れた登山の専門家と称する人たちが自分自身の基準をもとに「これをしなかったから悪い。」「これを持っていかなかったから悪い。」などのように事後的に非難するのは簡単であるであるが、公平ではない。客観的基準に基づかないものは個人的バイアスがかかっており公平性に欠ける。

那須の事故を無駄にしないためには登山に対する具体的かつ効果的な安全基準の制定が必要である。マスコミも誰かの責任追及ばかりするのではなく、このような問題提起をし、世論を喚起するのが仕事。我が国は法治国家である。この点をよく再認識もらいたいものである。

コメントを残す