5つの共通点

英国の離脱支持層とトランプ氏支持層に多い人の特徴として、(1)年齢が高い(2)大学教育を受けていない(3)エリートへの不信感(4)外国人嫌い(5)懐古主義的などの点で重なるとの指摘

情報源: 英離脱、トランプ氏に追い風? 支持者に5つの共通点(朝日新聞デジタル) – Yahoo!ニュース

英離脱派の勝利で欧米極右に勢い 排外主義を主張

英国の国民投票で反移民を訴えた欧州連合(EU)離脱派が勝利したことを受け、排外主義を唱える欧米の政治家が勢いづいている。ロイター通信によると、米大統領選の共和党候補への指名を確実にしているドナルド・

情報源: 英離脱派の勝利で欧米極右に勢い 排外主義を主張


英国の選挙結果を、第二次大戦前にナチスが選挙で民主的に選ばれてドイツを独裁へと導き、排他主義をとった歴史とオバーラップさせているのは私だけではないはず。まだ、英国版ヒトラー(英国のトランプといわれるジョンソン元ロンドン市長か?)が誰になるのかは見えていないが、アメリカではトランプ、フランスではルペンなど、具体的に目に見えている国もある。これは極めて恐ろしい事態である。

ナチスによるユダヤ迫害に見られるように、特定の民族をスケープゴートにするのは人類の歴史の中で、頻繁に起きていることである。今回の英国では移民を悪者にしているが、トランプもメキシコ移民やイスラム全体を悪者にしているし、オランダで急速に支持を伸ばしている極右政党の自由党などもイスラム全体を悪にしている。そして彼らに共有するのは「我が民族は優秀なり!」とナショナリズムを煽ることである。これは大衆支持を得るためには極めてアンチョクな答えだ。こうゆうタイプの政治家は支配意欲が強く、自分と異なる意見の人間を強引に排除し、独裁に走る。そうゆう独裁を防ぐために民主主義はあるのだが、その民主主義が機能していない。これは金融危機などという経済的な危機ではなく、民主主義の危機である。議会制民主主義発祥の地ともいうべき英国で、移民排斥を訴える離脱派が勝利したことに重大な危惧を覚える。

「歴史は繰り返す」という格言があるが、こうゆう民族浄化(エスニッククレンジング)の歴史だけは繰り返してほしくない。破滅につながるだけだ。しかし、そこに向かっているかもしれないという「ヒヤリハット」が今起きているように思う。インシデントは早く消火しないと大火事になる。

「賢者は歴史から学び、愚か者は己の経験から学ぶ。」という格言もある。英国民のみならず、我々皆がもう少し賢者になる必要がある。

「ロンドンのビジネスエリートは英国を代表しない。庶民は頭(理屈)でなく腹(感情)で判断する」

上記はマックシェーン元欧州担当相の言葉。

民主主義とは難しいものだ。英国のように比較的高等教育が行き届いている国でも政治家が対応を誤ると国家を民衆自らの手によって危機に陥らせることになる。

 

時事ドットコム

情報源: 国民投票、危険性浮き彫りに=甘かったキャメロン首相の読み-英:時事ドットコム

 

英のEU離脱とナショナリズム

本日行われる国民投票の結果によっては、英はEUから離脱する。離脱派の主張はいろいろあるようだが、EUが無駄な規制を作りすぎておりイギリスが独自に規制を作ることができないという主張と、EUからの移民が多すぎて英国民の仕事が奪われ、英国民の税金が彼らに使われ過ぎているという主張の2つが大きな理由のようだ。

EUの過剰規制を嫌うのなら、その気持ちは理解できなくもないが、ほんとうにEUの規制は過剰なのかというのは認識が分かれているようだ。そもそも、その規制作りに英国も参加し、重要な役割を果たしてきたはずなので、あたかも他人が自分たちを過剰に規制していると考えるのも無責任な話である。

EUからの移民が多すぎるというのは、上記と全く逆の発想で、EUが自由を保障しすぎるのが嫌だということになるのだろう。結局のところ、これはアメリカのトランプが支持を集めているのと同じように、根底にあるのはナショナリズムであり、不寛容社会の現れということになると思う。

社会全体のパイが増大しているときは、人々は他人にも寛容になれるが、全体のパイが縮小しているときは不寛容になり、自己中心的になりやすい。これは、考えてみれば当たり前なのかもしれない。人々には他人より自分を優先する権利があるし、正当防衛だと主張されれば、仕方ないですね、ということにもなる。

しかし、考えてみれば、ヒトラーもこんな感じで登場したはずである。第一次大戦後の苦境にあったドイツで「俺たちは優れた民族だ! ユダヤ人が我々の富を奪っている!」などと言って、民主的に拍手喝采登場し、民主的に当時最も民主的といわれたワイマール憲法を停止し、独裁、戦争へと突っ走った。ユダヤ人をスケープゴートにし、大虐殺。ヨーロッパ全土を焦土化。やってることは後から考えれば気が狂ってたとわかるのだろうが、当時は当然だと思ってやってたのだろう。従って、結局のところ、ナショナリズムを煽って、争い事を起こしたところで、自他ともに壊滅的な状況に陥っておしまい、ということになるだけだ。

最近、ほんとうにこのような気違いじみたナショナリズムが世界的多いように思う。日本で問題となっているヘイトスピーチもそのひとつだろうし、アメリカのトランプや、ヨーロッパの極右政党も同じである。ロシアのプーチン大統領もかなりナショナリズムを煽っている。

なお、争い事そのものが悪いのではない。スポーツにしろ、ビジネスにしろ、互いに敬意をもって競争し、切磋琢磨することは、互いの向上のためには必要なものである。しかし、「俺たち国民は優れた国民だ!」など言って他の民族を排他しようとするのは、互いが向上するわけでもなく、自己満足以外の何物でもない。

ナショナリズムは、危機を起こす要因となる「ハザード」である。これは、先日、EU残留派のコックス議員が「Britain First」などと叫ぶ離脱派の何者かに刺されたことからも言える。全員が全員過激な人間とは思わないが、ナショナリズムを唱えて他の民族や反対派を力で排除しようとする者は多いはず。結局のところ、ナショナリストもテロリストもあまり変わりはない。

 

 

危機管理用語はわかりにくい

デカルトは方法序説の中で「難問は分割せよ」と言った。大抵の難問は分けて考えれば意外と簡単に解けるものであるという意味だが、日本では、最も難問とも言うべき危機管理がきちんと分割思考で検討されているとは思えず、高い曖昧性と意味不明の用語の乱用の中で運用されている。

そもそも「危機管理」という単語自体が極めてあいまいな語であって、どこにも定義らしい定義が存在しない。最初に危機管理を唱えたのは佐々淳公氏らしいが、氏もあまり細かな定義はしていない。この言葉を英語に直すと「クライシスマネジメント」だと思っている人が大半だが、Amazon.comでCrisis Managementと検索すると、大規模災害などのマネジメント関連書ではなく、どちらかというと企業不祥事などような企業危機のマネジメントに関する書物ばかりが表示される。

防災や大規模災害のマネジメントというカテゴリーは「インシデントマネジメント」という語になる。日本ではインシデントマネジメントというとITセキュリティーの用語だと勘違いしている人が多いが、ITシステムに対する攻撃がITセキュリティインシデントと呼ばれているだけのことであって、それが本家本元というわけではない。何らかの重大被害を生じさせる恐れのある事態がインシデントだと思っている人も多いが、それも間違っており、すでに重大な被害が発生している場合もインシデントである。すでに発生した事態がまた更に大きく甚大な被害を生じさせることもあるわけであって、その意味ではすでに発生しているか、発生しそうになっただけかは問題ではない。Amazon.comでIncident Managementと検索すると米国の防災基本計画ともいうべき「National Incident Management System」などの関連書が表示される。

小規模なものがインシデント、その次がアクシデント、更にそれが大きくなるとクライシス、などのように分けている場合もあるが、どの程度規模ならそれぞれ、インシデント、アクシデント、クライシスなのかを区別するのは、主観的にならざるえず、少なくとも法的に区別することは困難である。米国などでは被害の種類や大小に応じてマネジメントの仕組みを変えるなどということはできないため、インシデントの種類や被害の大小に応じて、投入資源の種類や投入量を変更するだけという考え方をとる(資源は変わるが機能やプロセスは変わらない)。なお、インシデントにぴったりと相当する日本語は存在しない。インシデントを「危機」と訳している人もいるが、これは大変な誤解を招く。警察官がひとりで対応するような交通事故もインシデントであるし、ちょっとした船舶海難も立派なインシデントであり、決して、日本語でいう危機的状態のみを指すわけではない。インシデントは、外来語として処理せざる得ない単語であり、意味を説明し、外来語として広げていくべきだろう。

マネジメントは、いくつかの段階に分かれる。まずは、大きく分けて、インシデントが発生する前と後。そして、インシデントが発生する前の段階は Prevention/Mitigation、 Preparedness、発生した後の段階は、Response、Recoveryに分かれる。そして、これらの英単語の意味自体は、英語圏内ではかなり明確だが、これを日本語に訳す段階で、人それぞれの趣味に応じたバラバラな翻訳が存在し、それぞれの日本語の意味が不明になっていることが多いようだ。

HazardとThreatという語についても不明確。ハザード(Hazard)[1]は、危険因子とか危険要因などと翻訳されることもあるが、「ハザードマップ」などのように外来語として定着している感もある。ハザードマップのハザードは「危険地域」という意味合いが強いが、本来的には「地域」かどうかは関係なく、害を引き起こす可能性がある根源的な要素という意味である。例えば土砂崩れが起きそうな山肌とか、洪水を起こすかもしれない河川とか、地震が起きるかもしれない断層帯とか、爆発するかもしれない危険物などのように災害を起こす要因となりうるものが「ハザード」である。ただし、河川とその水面より低い土地という2つの資源が掛け合わされて人間に対して害を及ぼす可能性のある新たなハザードが構成されているという解釈は成り立つので、洪水災害を起こす可能性がある土地自体をハザードマップ上でハザードと呼ぶことは特段の問題はない。他方、コンピュータウィルスによる攻撃やネットワークへの侵入、戦争における敵からの攻撃、ビジネスにおける競合他社の活動などのようなものはThreat[2]と呼ばれ、そのまま「脅威」と訳されている。ハザードと脅威は、使用される分野が多少違う(ハザードは防災分野、脅威は戦争やITセキュリティなどの分野)だけで、意味するところは、どちらも同じだ。要するに「害を引き起こすかもしれない何か」だ。更にリスクマネジメントの分野では「リスク源(Risk Source)」[3]という語もある。これも同じである。

[1]      Hazard: Source of potential harm(ハザード:害を及ぼす可能性のある源).  NOTE Hazard can be a risk source(注:ハザードはリスク源と呼ばれることもある). (ISO Guide 73:2009(E/F), Risk Management – Vocabulary, First Edition, 2009)

[2]     脅威:システム又は組織に損害を与える可能性があるインシデントの潜在的な原因(ISO27002:2006  2.16)

[3]     リスク源:それ自体又はほかとの組合せによってリスクを生じさせる力を本来潜在的にもっている要素(ISO31000:2009  2.16)

つまり、ハザード=脅威=リスク源、である。

ところで、Preventionとは、和訳すると「予防」である。つまり、被害が発生しないようにすること。このためには、ハザードや脅威を根本的に除去するしかない。従って、100%除去することができるものもあればできないものもある。例えば、河川というハザードがあったとする。この場合、河川自体を埋め立ててしまえば、少なくともその川に起因する災害が発生する可能性はゼロになる。土砂崩れを起こしそうな山があったならばその山自体を削って平らにしてしまえば土砂崩れは起きない。踏切も電車と車がぶつかるというリスク源である。この場合、電車の線路と道路を立体交差にして物理的に踏切というリスク源を除去してしまえば電車と車がぶつかるリスクは回避できる。原子力発電所を廃止してしまえば原子力災害のハザードはゼロとなるので原発事故は回避できる。戦争では敵を攻撃して殲滅してしまえば敵の脅威はなくなり、敵から攻撃は回避される。逆に敵と和解した場合、敵からの攻撃は一時的には回避されるが、裏切られる可能性もあるので、その脅威を100%除去することはできない。コンピューターウィルスもしかり、ウィルスを作っている連中を逮捕して除去できればよいが、すぐに別の人間が開発するので、その脅威を100%除去することはできない。地震を起こしそうな断層をなくすなどということは物理的にできないし、地球のマントル対流を止め、プレートが動くのを止めることもできないので、地震というハザードも100%除去することはできない。

このようにハザードや脅威を100%除去することができない場合、次にできることはMitigationである。実は、このMitigationという語の和訳は人によってバラバラであって一定ではない。私は、「減災」と訳していたが、英和辞書の訳通りに「軽減」や「緩和」と訳す人もいる。一部のジャーナリストには、「減災」を後に述べるResponseの意味で使っている人もいる。しかし、MitigationとResponseは明確に異なるフェーズである。Mitigationとは、脆弱性(Vulnerability)を下げ、ハザードや脅威に耐える力を増強すること、言い換えれば、弱みや弱点を補強すること、対抗性を強化すること、である。コンピュターセキュリティーの分野では、ウィルスによる攻撃や外部からのネットワークへの侵入といった脅威に対して弱いことを「脆弱性がある」とか「脆弱性が大きい」などという。中には「脆弱性が高い/低い」という表現を使う人もいるが「高い/低い」では混乱する。「ある/なし」「大きい/小さい」の方がよいだろう。脅威からネットワークを守るためにはその弱点を補強する、すなわち「脆弱性を小さくする」必要がある。ただし、この脆弱性とか、「脆弱だ」という単語、決してコンピュターの世界だけの特殊用語ではないはず。普通に災害などで使っても違和感はない。要は、弱いところを強くして、ハザードや脅威に対する抗力を増強すること、それがMitigationである。例えば、住宅の耐震性を強化する、巨大な堤防を作って津波から守る、ワクチンを打ってインフルエンザウィルスから身を守る、子供がベランダから落ちないように転落防止策を作る、土砂崩れ防止策を山肌に作って土砂が道路に落ちてこないようにする、コンピューターのOSやセキュリティソフトをバージョンアップして、セキュリティーホールを少なくする、などなどである。Mitigationには該当するよい日本語がない。あえて意訳して「脆弱性最小化」とでもしたほうがよいかもしれない。

そして、Mitigationをしても所詮、被害が発生する確率や可能性を「減少」させているに過ぎない。ハザードや脅威そのものを取り除いたわけではないので、被害発生の確率や可能性は依然としてゼロではない。従って、被害の発生に備えておかなければならない。これがPreparednessであり、「準備」と訳される。この訳には何の問題もないだろう。なお、日本語で「災害への準備」と言った場合、前述のMitigationに関することまで含んだ意味で使われていることもある。しかし、この2つは明確に異なる。Mitigationは、被害が発生する確率に働きかける、すなわち被害が発生しにくくする行為であるのに対し、準備(Prepareness)は、どんな被害が発生しようとも迅速に「人間」が対応(Response)し、被害が次から次へと広がっていくのを防ぐための資源をあらかじめ用意しておくことだ。人間が迅速に対応するために必要なものは、資機材、制度、練習、訓練などである。これには、異常事態を検知したときに人間に知らせるアラームの設置や緊急時の対応計画の策定、消火器や消防車などの資機材の購入、防災訓練、研修、第3者との協力協定の締結などが含まれる。いずれもポイントは「人間による対応」ができるようにしておくこと、である。

Mitigation(脆弱性最小化)とPreparedness(準備)は何が違うのかと言えば、Mitigationは、人間以外の「物」による防御、言い換えればSafeguardを構築することである。「物」が自動的に対応してくれるように備えておくこと、と言うこともできるだろう。これに対し、Preparedness(準備)は、「人間」が手動で対応できるように備えることである。

インシデントが発生し、Mitigationの段階で構築したSafeguardが破られた場合、最終手段として人間が対応しなければならない。これがResponseであり、その訳として「対応」という語は、すでに幅広く使用されているようである。なお、人間が効果的にResponse(対応)するためには、その前段階であるPreparedness(準備)が十分なされているかどうかにかかっている。ただし、インシデントへの対応方法などを完璧に予測して準備しておくことは不可能である。準備しておいた資機材や人材、各種の計画などを臨機応変に活用してベストの解決策を創造する、言い換えれば、発生したインシデントに応じて、準備しておいたいろいろな人や物、計画書などを適宜組み合わせて解決方法のイノベーションを起こすこと、これが対応時のポイントだろう。

インシデント発生後の段階としては、Response(対応)とRecovery(復旧)があるが、この2つはどう違うのか。どのような状況になったらRecovery(普及)段階と言えるのか。これも厳密に定義することは難しい。インシデントが発生すると何らかの資源に害が及ぶ、または害が及ぶ恐れが顕在化し、ほっておくと何かの資源が失われていく。ここでいう資源とは、目に見える人間、物、道路、建物、お金などだけでなく、目に見えない「信用」などの場合もある。従って、失われつつある資源を救助し、被害の最小化を図ること、これがResponse(対応)の段階の仕事ではないかと考える。

資源を救助する方法には2種類ある。一つ目は資源そのものを救助する方法、二つ目は資源が提供している機能を救助する方法である。インシデントが発生した場合はまずは資源そのものを救助しなければならない。それも、人間という人的資源の救助が最優先であり、その次に人間以外の資源ということになるだろう。人間以外の資源をどのような順序で優先的に救助するかは、人や組織によって異なるものであり、それぞれ個別に検討しておかなえればならない。いかなる場合でも、失ったら復旧することが不可能な資源の救助が最優先(人命という資源は失ったら元に戻すことができない)である。なお、人間という資源の救助には、がれきの山の中から生存者を救助するというような狭義の救助に加えて、その後の医療支援なども含むものとする。

二つ目の救助方法である「機能の救助」とは、代替資源を使用するということである。例えば、東京メトロで事故が発生した場合、東京メトロでの復旧作業が行われている間、JRで振替輸送が行われる。これは、東京メトロという資源が提供している輸送という「機能」をJRによる輸送によって救助しているようなものと考えることができる。これにより、普段は30分で行けるところが1時間以上かかるかもしれないが、行けないよりもマシということである。なお、このような代替サービスを提供するためには、インシデントが起きる前に東京メトロとJRが協定なり契約なりをあらかじめ結んでおかなければならない(あるいは鉄道の公共性に鑑み、役所が法律によっていざというときの協力を義務付けているのかもしれない)。東京メトロとJRは普段はコンペティターだが、いざというときはひとつの組織のように協力する仕組みをあらかじめ構築しておくということである。

なお、この「機能の救助」という段階を民間企業のBCMSでは「事業継続の段階」と呼ぶこともある。Response(対応)とRecovery(復旧)の間で、どちらとも一定期間オーバーラップする段階である。ただし、事業継続と言ってしまうと民間企業特有のものと考えてしまうかもしれないが、決してそのようなことはなく、道路が寸断されたときの迂回路の設定、災害時における食糧支援、仮設住宅の提供などもこれに属する。

最後の段階がRecoveryである。復旧と訳されたり、復興とも訳されることがあるが、どちらもその規模感の違いだけで意味するところに違いはない。この段階での仕事は、ダメージを受けた資源を元通りに戻すということである。ただし、完全に元通りとするのがよい場合とよくない場合がある。また、元通りにそもそも戻せない場合もある。例えば、人命という資源は、一度失われてしまうと復旧不可能である。世の中にはこのような「不可逆性」があるものが多数ある。そのような場合には復旧不可能ということになり、復旧の前段階である「機能の救助」をもって我慢しなければならない事態もあるだろう。生命保険なども人間が提供していた生産機能を金銭にて代替する「機能の救助」と考えることができる。東日本大震災で大きな津波被害を受けた一部の三陸沿岸の町では、元々あった場所に町を復旧するのではなく、高台移転を促し、元と異なる場所に町を構築した。これも、どちらかというと元あった場所に戻ると再度津波にあう危険があるため、不可逆性のある状態だ、と考えることができる。従って、町という資源をそのものを元に戻すのではなく、町の機能を高台に移すという一種の機能の救助を実施したと考えられる。

ところで、わが国の災害対策基本法は、どのような区分をしているのだろうか。この法律には、「災害予防」「災害応急対策」「災害復旧」の3つしかない。法律の内容をよく読むと、

「災害予防」= Prevention + Mitigation + Preparation

「災害応急対策」 = Preparation + Response

「災害復旧」= Recovery

である。この法律は制定されたのが昭和36年と非常に古い法律であり、内容もグローバルスタンダードとはかけ離れている。法律に基づく防災基本計画は、各役所が予算を獲得するための道具としては役に立っているかもしれないが、実際のインシデントに対応するためにはあまり役に立たない。

 

 

 

 

 

日銀への“不信任案”?

三菱UFJによるプライマリーディーラー資格の返上、これは日銀に対する一種の不信任決議ではないかという解釈がある。

「1000兆円を超える日本の借金。その資金繰りのために、メガバンクと日本銀行、財務省の三者は、あうんの呼吸で国債の発行と購入を繰り返してきた。ところが、日銀が導入した異次元金融緩和政策とマイナス金利政策によって、メガバンク最大手が“鉄のトライアングル”から離れる決意をした。・・・・」

情報源: 三菱UFJの国債特別資格返上は日銀への“不信任案”か

舛添知事に対する不信任決議くらいなら国家に虫刺されのかゆみが生じるくらいのものでお茶の間の話題が増える程度の話だが、日銀の信用が失われるような事態になると、これはとてつもない危機になる。日銀発行の債券である「円」への信用が失われるってことだ。国家の心臓ポンプが機能しなくなるようなものだろう。

都知事は、民主的に選挙で選ばれているので、同様に選挙で選ばれている都議会で不信任となれば首にすることができる。しかし、日銀総裁は我々が選挙で選んでいるわけではない。日銀の独立性を根拠に、金融政策に関する独裁が法的に許されている組織に対して誰が不信任案をたたきつけることができるのか。それは、日銀のお客様である「市中銀行」しかない。その代表格であるメガバンクの三菱UFJが日銀の金融政策に「ノー」と言った、私はそんな気がしている。

「信用」という目に見えない資源は、予測もできないスピードで急速に失われていく。これは舛添知事が信用を失っていく速度を見ればわかることだ。彼の対応は極めてお粗末で、事実を正直に自分から迅速に発表し、早めに陳謝しておけばこんな事態には恐らくならなかったろう。人間というのは愚かなもので、なかなか自分から自分に都合の悪いことは発表できないものだ。しかし、最悪の事態を避けるには自分から発表するしかない、大手の民間企業などはこの点を理解しているから、危機管理広報のコンサル会社みたいなところと契約し、「ゴメンナサイ」の仕方まで勉強している。三菱自動車もその辺を理解しているから自分から先手先手で膿を出し、最悪の事態の回避に努めているのだろう。

ところが、公的組織というのはこの点の考え方が甘いのが常である。舛添知事もこのような「ゴメンナサイ」研修を受けていたとはとても思えず、一貫して「自分は法的に問題なことはしていない」と突っぱねてきたのが致命傷になった。

日銀が舛添知事のように信用を失っていくという事態は想像したくないが、日銀も所詮役人の集団である。黒田さんだって役人の出身。役人の行動原理は組織防衛のための「アリバエ」の構築である。日銀が目先のアリバエ作りに終始し、信用を失っていくことはなんとしても避けてもらいたい。「自分たちの金融政策はうまくいっている」ふりばかりするのではなく、時には先回りして失敗を認め、戦略の変更を示すことも必要だ。でないと信用を失い始めたときにもう止められなくなる。

舛添都知事の対応とプロスペクト理論

投資の世界ではよく知られているプロスペクト理論だが、これを応用した心理会計によってクライシス・コミュニケーションの在り方を説明できる。

人々の価値関数が下の図のようになると仮定すると、人々にとって利益になるような情報は、V(X1)+V(X2) > V(X1+X2)であるため、まとめて提示するよりも分割して提示した方がよいということになる。従って、サービスなどは、一度にもらうよりも、分割して何度かにわけてもらった方が一般的には満足度が高くなる。これに対し、人々に対して不満足度を増大させるような内容ならばこれと逆で、小刻みに出すよりも一度に出す方が、不満足感は小さくなる。

これを応用すると災害時などの広報や企業などで不祥事が発生したときの広報は、まず、あらゆる事実を集めて、迅速に全ての情報を公開してしまった方が、人々の不満足度、言い換えれば不安を小さくするためにはよいということが説明できる。自ら発表するより前に、マスコミなどからバラバラに様々な情報が出てくるようになると人々の不満足度がどんどん増大してしまうためである。新たな事実が追加的に発覚した場合にも、その都度、全てを一度に急いで広報してしまう必要がある。

 

プロスペクト理論

ところで最近話題の東京都の舛添知事だが、彼の情報の出し方をどう評価すべきか。心理会計では、人々に対して信用を失わせるような情報ならば、小刻みに出すよりも一度に出す方が、不満足感は小さくなる。しかし舛添知事の場合、不祥事が発覚以降、次から次へと知事の信用を失わせるような情報がマスコミに出てしまった。マスコミから出てくる前にご自身で至急調査し、ご自身ですべてを一度に発表していれば、人々の不満足感はかなり小さかったに違いない。

そして、未だに「厳しい第三者の目で」などと述べられたその情報が何一つ出てこない。都民は、第3者による調査結果ではなく、舛添さんの口から情報をとにかく欲している。従って、調査結果を待つのではなく、ご自分の口でとにかく急いで発表した方が都民の不満足感は小さくなるのではなかろうか。