見せかけとしての訓練では不十分

NHKなどでの報道を見ていると、相模原での事件を受けて全国の障害者施設で不審者に対応する訓練が始まっているようだ。確か2001年に発生した大阪の池田小学校での事件の後もそうだった。多くの小学校で警察官の指導を受けながら不審者対応訓練を実施していたように記憶している。訓練を実施することは必要なのだが、問題はその想定とシナリオ、つまり、今回は障害者施設、10年前は小学校というように、事件と同じ施設が狙われているというシナリオに基づく訓練ばかりが行われていることである。日本では、何か事件や事故があると、あまり意味がないということがわかっていても、見せかけを作るためのパフォーマンスとしての訓練が行われることが非常に多い。

正直言って、今回の犯人が無罪放免されて留置場から出てくることでもない限り、全く同じパターンで狙われるなどという確率は限りなくゼロに近い。池田小事件のあと、同じような事件が小学校で発生しただろうか? 全くゼロだったはずである。今回の犯罪は、過激派集団による組織的な犯罪ではなく、いわゆる「ローンウルフ型憎悪犯罪」である。これが組織的なものであるならば、同様なシナリオが発生する可能性は確かに高いが、今回のパターンは全くの個人によるものであって理由もターゲットも独特なものであるので、全く同じパターンの発生確率は極めて低い。

ただし、今回の事件が、人々、特に障害者施設で働いている方々のリスクパーセプション(リスク認識)に変化を与えたことは間違いない。従って、障害者施設の方々の不安感が高まるのは当然であり、何ら不思議なことではない。しかし、実際には、その犯人(リスク源)がすでに逮捕、すなわち除去されている。必要以上に障害者施設の方々の不安を煽るのではなく、障害者施設の方々に対する説得力のあるリスクコミュニケーションが実施されれば、障害者施設の方々のリスク認識、言い換えれば不安を和らげることはできるはずである。

ところで、今回の事件と同じシナリオが発生する確率は極めて低いのだが、他方、日本でも、無差別殺傷事件は多発している。右の表は、7月27日付日経新聞電子版からの引用であるが、同記事にもあるように、これらは、多かれ少なかれ、社会に対して何らかの反感を持つ「ローンウルフ」が過激化した「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」である。欧米のテロと違うのは、宗教的なものでも組織的なものでもなく(オウム事件を除く)、銃を使ったものでもないということぐらいである。表から見ても、同じシナリオで発生しているものはないことがわかる。それは、それぞれのリスク源である行為者本人が逮捕されているからである。

このように全てパターンが異なる場合どうすべきか。これは「オールハザード」と呼ばれる対応手段を準備しておくしかないということになる。「ハザード」とか「リスク源」とか「脅威」など、いろいろな言葉が氾濫しているのだが、防災分野ではリスク源をハザードと呼び、セキュリティの分野などではそれを脅威と呼んでいるだけであって、いずれも、好ましくない結果をもたらしかねない根源的な要因である。

今回のような犯罪の場合はハザードと呼ぶよりも、脅威と呼んだ方がよいのかもしれない。その場合、どのような脅威に対しても効果的に対応する手段ということになる。そんなことが可能なのかと瞬間的には誰もが思うだろう。しかし、アメリカなどで発達している「オールハザード」という考え方は、何のことはない、お客様からのオーダーメードによる特注品の製作工程と同じである。トヨタのジャストインタイム工程と同じことだとも言える。(注:「オールハザード」という考え方は、全てのシナリオを詳細に事前に予測して災害の発生を予防するという考え方ではない。逆に予測しきれなかったシナリオに対して事後的に迅速かつ柔軟に対応して被害を最小化できるよう要所要所を標準化したマネジメントシステムである。)

ある犯罪者は、銃を持っているかもしれないし、他の犯罪者は包丁かもしれない。ある犯罪は、複数人のグループによるものかもしれないし、他はローンウルフかもしれない。銃を持っている犯罪者にナイフで対抗するのは、B29に竹やりで対抗しようとするようなものだし、組織的な犯罪にひとりで立ち向かうのもアメリカ映画に出てくるヒーローのような力を持っている者でなければ無謀である。つまり、個々の脅威に対応するために必要な道具や人数、組織、作戦(これらを総称して「資源」と呼ぶ。)は、全てのケースにおいて異なるということである。

ではどうするべきか。答えは、資源と機能、資源とプロセスを完全に分けたマニュアル(「インシデントマネジメントマニュアル」)を作っておき、そのマニュアルに習熟しておくということである。しかし、実は、このように分けて考えるということが意外と難しい。往々にして、我々の作るマニュアルというのは、「誰が何をする」、「何によってナントカする」、「どの組織が何をする」、「次の仕事は誰がする」などとように資源と機能、資源とプロセスを明確に紐づけて固定的にしてしまうのだが、これが諸悪の根源である。重要なことは、目的を達成するために必要な資源を柔軟に選択することである。銃を持った侵入者がいたとし、目の前にナイフしかなければ、無謀な行動をせず、外部に支援を要請する方がよい。ではどのように外部に支援を要請すべきか、このようなプロセスを明確にしておけばいざというときの現場の混乱はある程度避けられる。

どのような脅威が発生したのか、まず、把握する(敵は何人、敵の武器は何、など)。それに対応するための資源は手元にあるのか、なければどこにどうやって支援を求めるか、現場ではどのような立場の人(誰がという特定の人物名ではなく、「当直長」「その場に居合わせた人の中で最上位の人」などのように柔軟性を持たせておく)が指揮者になって当座の意思決定をするのか、などをあらかじめ決めておき、資源選択の訓練や支援要請の訓練をしておく、そして、このようなマニュアル作成と訓練を今回事件のあった障害者施設だけではなく、様々な組織で実施しておくことが重要だと思われる。なお、オールハザードの考え方を徹底し、作り方さえ間違えなければ、今回のような犯罪リスクのみならず、災害リスクなどにも対応できるはずである。

日本では、「訓練をやりました」という「アリバエ作りのための訓練」、言い換えれば「見せかけ」の訓練が多すぎる。日本は基本的に村社会文化に根差しているため、みんなの和を維持することに過剰に神経を使い、喧々諤々と意見を述べながら訓練や議論を繰り返すのは難しいのかもしれない。必要なのは現実を重視し、熱のこもった議論をしながらマニュアルを作り、その内容の確認と改善のために訓練を実施することなのだが・・・。

 

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相模原障害者施設殺傷事件

どうゆう基準で誰が作成しているのかは知らないが、今日、相模原で発生した障害者施設での殺傷事件について、次のWikipediaがすでに作成されていた。

Wikipedia: 相模原障害者施設殺傷事件

報道されている情報にのみ基づいており、まだ、裁判で事実が明らかになったわけでもない状態で事実かの如くWikipediaにしてしまうのもどうかとは思うが、報道情報のとりまとめ記事という意味ではあってもよいのかなとも思う。ただし、報道がすべて真実とは限らないので、その旨を明確にしておく必要がある。

ところで、報道が事実と仮定すれば、この男、卑劣であり、言語道断であることは言うまでもなく、また、精神疾患もあったのかもしれないが、ある意味、障害者を差別する極端な差別主義者であり、差別主義はナショナリズムとほぼイコールと考えると、この事件、最近、全世界で多発しているナショナリズムを背景にしたテロや犯罪などと根っこはあまり変わらないように思う。だいたい、極端な差別主義者は概ね精神疾患を病んでいるようなものとも言える。

アメリカで多発している警察官による黒人射殺、それに対する報復事件、フランス、ドイツ、バングラディッシュなどでのテロ、イギリスのEU離脱、アメリカにおけるトランプ現象、日本のヘイトスピーチ、そして、相模原の障害者殺傷事件、これらは明確な犯罪である場合もあれば、そうではない場合もあり、全然別物だとも見えるが、背景はすべて同じではなかろうか。すなわち、ナショナリズム、言い換えれば、非常に極端な排他的な差別主義が背景にある。欧州などでのテロ事件と今回の相模原の事件の違いは組織に属する者の行動か、単独の行動かという点だけで、何か特定のグループを排除することが自分たちの利益につながると勝手に思い込んでいる点では全く変わらない。

人間は今も昔も行き詰ってきたり、不満が極度に溜まってくると、だれか特定の自分とは異なる種類の人々を差別し、優越感に浸ろうとする。そして、為政者がそれを利用する場合もある。かつてヒトラーがユダヤを差別したのもそうだし、ボスニアヘツエゴビナでのエスニッククレンジングや、現代ではアメリカのトランプもニアリーイコールだと思う。

差別主義的な考え方、ナショナリズム、これらはエスニッククレンジングを引き起こす可能性のある非常に危険なリスク源であり、ハザードであり、脅威である。多様性を受け入れる社会を教育を通じて実現し、差別主義的な考え方をなくしていかなければ「歴史は繰り返す」ことになってしまう。

下記の日経記事にも同様の意見が書かれている。

障害者施設19人刺殺 社会覆う「憎悪犯罪」の闇

この事件をテロと呼ぶ人はまだいない。確かに欧米で多発しているような宗教的な背景があるものではなく、銃を使ったものでもないが、自分が気に入らないグループをターゲットに目的意識を持って殺害しており、それを適当な理由で正当化しているという点では全く変わらない。何をもってテロと定義するのかは社会的にも法的にも明確ではないが、その行為自体は、欧米で多発しているテロと何ら変わらないのではないだろうか。

 

 

 

リスクと不確実性

麻生財務大臣は、先週、成都で開催されたG20にて「世界経済は緩やかな回復基調にあるとする一方、引き続き下方リスクや不確実性がある」と会議で発言した。

情報源:為替市場の安定に万全を期す構え

内容自体は良いのだが、筆者が気になったのは、「下方リスク」と「不確実性」という語彙。実は、この「リスク」と「不確実性」という単語は、各種の分野によって定義が異なっており、世界的に定まった用法というものが存在しない。

Wikipedia: 不確実性

スタンカプランなどは、

・「リスクは、不確実性と被害の両方を含む概念である。」

として、望ましくない結果のみならず、望ましい結果の発生が確実ではない場合も含んだ概念が「不確実性」であり、そのうちで、望ましくない結果の発生が確実ではない場合を「リスク」と呼ぶ、とした。(Stanley Kaplan[1997], ”Word of Risk Analysis”, Risk Analysis, Vol.17, No.4)

この解釈だと麻生大臣の発言は「リスクがある」という表現で十分なはずだが、わざわざ「下方リスク」といい、加えて、別の概念として「不確実性」も加えている。これは、金融などの分野では、リスクをボラティリティ(標準偏差や分散)と同義として定義し、リスクを「上方リスク」(儲かる方向)と「下方リスク」(儲からない方向)に分けて表現することが多いためであろう。そして、上記のWikipediaにもあるように、発生確率がわかっている場合が「リスク」、発生確率がわかっていない場合が「不確実性」としてわける場合があるので、麻生大臣は、役所表現として「下方リスク」と「不確実性」の両方を単語を使用したのだろう。

しかし、上記はあくまでも経済分野での定義である。数学ではリスクと不確実性の区別はないし、工学や防災分野では、スタンカプランの定義に基づくものが多い。

なお、そもそも「リスク」の定義自体が非常に難しい。スタンカプランも、「米国リスク分析学会が設立されたとき、リスクを定義するための委員会がまず立ち上げられた。しかし、4年間にわたる議論の後、委員会は最終的にはこれを諦め、個々の著者にそれぞれ定義してもらうこととした。」。(Stanley Kaplan[1997], ”Word of Risk Analysis”, Risk Analysis, Vol.17, No.4)と述べており、如何にリスクを定義することが困難であるかを物語っている。

マニュアル化は善か悪か?

最近、畑村洋太郎氏の失敗学に関する書物を読んでいて思ったが、畑村氏は、マニュアル化を悪と捉える傾向が強すぎる。例えば、

マニュアルに従っていると、自分の頭で考える過程が省かれてしまいますから、表面的な部分しか理解されず、いつしかマニュアルのもつ真の意味が忘れられてしまいます。それが、「偽のベテラン」を生み出すことにもつながり、同じ失敗を何度も繰り返すことになる・・・・

畑村洋太郎[2011]、『「想定外」を想定せよ!―失敗学からの提言』、NHK出版、P130)

しかし、これはマニュアル化の程度による。マニュアルに何を書くかは、人それぞれ、組織それぞれであって、マニュアル化と一言で言いきれるほど共通した概念はない。要はマニュアルに何を書くかという問題である。あまりにも細かく書きすぎ、個人の裁量の余地をなくすような書き方をすれば確かに人は自分で考えなくなるが、マニュアルに思考のプロセスや問題解決ツールの選択枝だけ記しておき、その都度、最善の策を考えさせるような書き方もできる。このようなマニュアルであれば、マニュアルユーザーの思考を支援しているだけとなり、問題解決の方法まで強要していることにはならない。

畑村氏の言うように日本のマニュアルというのは細かく決め過ぎの傾向が確かに強いとは思う。例えば国や各地方自治体が定めている防災基本計画も一種のマニュアルだが、「誰(どの組織)が何をするか」を細かく決め過ぎているように思う。人や組織などを「資源」、その仕事を「機能」と呼ぶならば、資源と機能の関係が固定的過ぎる。大災害などが発生した場合には、様々な資源に被害が生じるので、予定された資源が予定通りの機能を果たせるとは限らない。必要な機能が果たされるならば、それを提供してくれる資源は何でもよいわけであるので、マニュアルには、災害時に必要とされる機能(すなわち仕事の内容)やプロセス(すなわち仕事の順序)を明記するにとどめ、その機能を果たすことができる資源にはこんなものやこんな組織がありますよ、と例示するだけにするならば、柔軟性が増す。

マニュアルには2つの書き方があるように思う。①「誰が○○○する」というように主語を明確にする方法と②「○○○がされるべき」というように受動形で主語や方法を固定的に示さない方法である。災害(インシデント)が発生する前に行うべき作業については①の方法でよいと思うが、災害(インシデント)が発生した後の作業については②によった方がよい。日本の防災基本計画などのマニュアルの最大の問題点はインシデントの発生前(災害予防)と発生後(災害応急対策)のことがひとつのマニュアルの中にごっちゃになっていることである。インシデント発生後の作業マニュアルについては切り離して②の方法によった方がよい。なお、②の方法はファンクショナルアプローチと呼ばれるものだが、日本でファンクショナルアプローチと言ったところで、何のことだかわからない人が大半である。

機能を先に定義し、あとから、それに必要な資源を割り当てるという考え方は、大前研一氏らが説く「戦略的自由度(Strategic Degrees of Freedom(SDF))」*を高めるという考え方と全く同じことである。

大前研一[2016]、『「0から1」の発想術』、小学館

大前氏は、商売上、お客様を満足させるような商品を開発する場合、自社にある既存資源を出発点としてそれをどう活用するかを考えるのではなく、お客様が何を求めているのか、すなわち、顧客が求める機能をまず最初に見出して、それを達成するために必要な資源を割り当てていきなさい、と述べているに過ぎない。ユーザーの目的関数を中心に考えれば、いくらでも自由が増しますよ、と言っているのであり、これが戦略的自由度(SDF)である。

災害時にも戦略的自由度は極めて重要である。しかし、多くのマニュアルがこの戦略的自由度を狭めるような書き方をしている感は否めない。災害時に必要な仕事、つまり、機能というのは経験則上、概ねわかっているし、思考のプロセスを明確化しておくことも可能だろう。従って、すべての災害に共通するような機能(権限なども一つの機能である)やプロセスのみを明確化しておき、それに割り振るべき資源の自由度は高めておくようなマニュアルであれば、畑村氏の言うようなマニュアル化の弊害は起きない(更に言えば、マニュアルを作る段階からそれを使う人も巻き込んで作るということが重要)。

全てのマニュアルが悪なのではなく、要はマニュアル化の程度や作るときのプロセスの問題である。防災用のマニュアルは、マクドナルドのマニュアルなどのようにハンバーガーの焼き方や挨拶の仕方まで縛るようなものにする必要はなく、一定の戦略的自由度を確保したものにしなければならない。

 

 

ドラッガー:意思決定の原則

P.F.ドラッカー「マネジメント 基本と原則」 P192:

意思決定は常に、可能な限り低いレベル、行動に近いところで行う必要がある(第一原則)。同時に意思決定は、それによって影響を受ける活動全体を見通せるだけの高いレベルで行う必要がある(第二原則)。

 

茨城を震源とする地震

今日も朝7:25分頃、震度4~5程度の地震が茨城県を震源としてあったようだが、先週から2日に1度程度の頻度で、茨城あたりを震源とする中規模の地震が多発しているように思う。最近2週間の発生状況マップは以下の通り。この状況をどう解釈するかは専門家でもわからない領域。

地震発生状況

eq

災害・非常用電池

今週都内で開催されていた防災関連イベントで紹介されていた電池。ひとつは、空気と触れ合うだけで発電を始めるという「エイターナス」、もうひとつは水と塩を混入させるだけで発電を始めるという「WattSatt」。

エイターナスは、空気が入らないような密閉された袋に普段は保管しておき、使うときにはその袋から出すだけで化学反応が発生し、電気が起きる。出力は12Vだが専用のインバーターを使えば100Vに変換できる。36Wパソコンが15時間程度使用できる容量。一個5万円位。使い捨てなので、一度使ってしまえば新しいのを買うしかない。

情報源:空気亜鉛電池エイターナス

WattSattは、付属の塩を2リットルの水(風呂水でもなんでもよい)に溶かして、本体に流し込めば化学反応が発生し、電気が起きる。出力は5Vのみなので、スマホやタブレットの充電専用というイメージだが、スマホ30台をフル充電できる容量。一個2万円位。やはり使い捨てなので、一度使ってしまえば新しいのを買うしかない。

情報源:マグネシウム空気電池WattSatt

緊急時に携帯や衛星端末などの通信機器を動作させるためにはどうしても電源が必要だが、この種の一次電池を必要量備えておけば、かなりの時間動作させることができる。