日本版FEMAのイメージには多くの誤解がある

日本版FEMAの創設を政府が検討している(サンケイニュース参照)

それはそれで良いことだし、当然あったほうがよいだろう。しかし、昔から感じているのだが、日本では政治家を含め多くの人が米国FEMAの仕事を誤解している。「米国FEMAは強大な権限を持ち・・・」とか「米国ではFEMAに一元化されているので・・・」などという論調や国会答弁を何度も見たことがあるが、何を根拠にそんなことを言っているのかなと常々思っている。大体、日本の学者などは「日本の危機管理を一元化しろ!」などというが、その「一元化」の定義たるや一体何なのか? おそらく、マスコミもよく理解していないのでこれらの誤解を煽っている。

そもそもFEMAのミッションをそのWebサイトで見てみよう。そこには次のように書かれている。

Mission

FEMA’s mission is to support our citizens and first responders to ensure that as a nation we work together to build, sustain and improve our capability to prepare for, protect against, respond to, recover from and mitigate all hazards

ここに書かれているとおり、彼らのミッションは「to support」(支援すること)であり、他の役所や州政府などを「to direct」つまり指示や命令する権限などはどこにもない。これは米国という国家体制を考えてみれば容易に理解できることである。米国は各州が独立国に近い権限を持つ「連邦制」である。日本のように中央集権的な国家ではない。中央省庁の権限強化が目的なら、すでに日本のほうが米国よりもはるかに強い権限を持っている。災害時に干渉し過ぎなほどである。そもそも、連邦政府は州政府を補完しているにすぎず、何でも連邦政府で決められるわけではない。よく、日本の中央省庁の公務員が人事院の留学制度などを利用して米国に調査に行くと、大体、多くの人が日本の中央省庁でやっていることは米国でも連邦政府でやっているに違いないと思っていくのだが、実際はそうではなく、よく米側から「それは各州政府に聞いて下さいね・・・」と言われる。米国とはそもそも個人の自立、地方の自立、州の自立が基本にあり、足らないところを連邦が支援しているに過ぎない。

基本的に米国のインシデントマネジメントは、ボトムアップである。トップダウンではない。まず、何らかのインシデントが発生した場合には、市町村など地元で対応する。しかし、地元だけでは対応できない場合には州政府に支援を依頼する。そして、その州政府でも十分な対応できない場合に初めて連邦政府に支援が要請される。何か発生するとすぐにFEMAが飛んできて強力に地元を指揮して対応する、などというのは映画の見過ぎであり、事実ではない。そして連邦政府の支援と言えどもFEMAだけで全てできるわけではない。捜索救助(SAR)なら沿岸警備隊(USCG)や空軍に頼まなければできないし、外国からの支援が必要なときには国務省に頼らなければならない。通信のことならFCCに頼る必要があるし、農業支援が必要なら農務省に頼る必要があるだろう。専門的な支援は、それを専門とする役所が支援しなければならないのであって、何でもかんでもFEMAでできるわけではない。これは筆者が10年前ジョージ・ワシントン大学大学院で勉強した時に、USCG OBの教授から最初に教わったことである。教授は「アメリカのインシデントマネジメントは、ボトムアップだと思いますか? トップダウンと思いますか?」と学生に聞く。すると多くの学生が「トップダウン!」という。しかし先生から「NO! ボトムアップ!」と言われて上記のような説明を聞くのである。

 

ではFEMAの役割とは何か?

The Federal Emergency Management Agency coordinates the federal government’s role in preparing for, preventing, mitigating the effects of, responding to, and recovering from all domestic disasters, whether natural or man-made, including acts of terror. (FEMA Webサイトより)

つまり連邦政府の調整(coordinate)である。「調整」の言葉には他の役所に指示したり、命令したりする権限は含まれない。必ず、相手の同意が必要になる。他の連邦政府の役割を調整し、それでも足らないところは自らすすんで行うということである。州政府に減災するための予算を配分したり、緊急時に対応するためのトレーニング(ICSの研修など)を行ったり、当然、緊急時に自らが保有する資機材や人員を派遣して支援することもあるし、場合によっては災害マネジメントそのものを支援(企業経営に例えれば外部の経営コンサルタントが顧客企業の社長に戦略アドバイスをするようなものである。意思決定者は現場のインシデント・コマンダーであってFEMAではない。)することもある。しかしながら、FEMAがいれば全て大丈夫、ということではないし、そんなに万能ではない。

実際問題としては、米軍がイラクに反政府勢力に対して空爆するにあたっても、原則としてイラク政府からの要請がなければできないが、実際には様々なルートを使って圧力をかけて「要請させる」ということがあるように、災害対応するにあたってもFEMAが現地の現場指揮に対して「要請させる」ということはあるかもしれない。しかし、この場合においても、FEMAに「強力な権限」があるから行っているわけではなく、「高い能力、ノウハウ、専門性的知識」があるから行っているわけである。従って、日本版FEMAを作る時に勘違いをして「強力な権限」だけを与えても中身が1年か2年間隔の人事異動ですぐに変わってしまうような専門性の低い集団になってしまったら、何の役にも立たない。権限よりも高い専門性という実態の方が重要なのである。権限はなくても専門性のある集団は役にたつが、専門性がないのに強大な権限だけある集団ができたら悪夢である。

日本版FEMAを作るとしたらどんな役割が必要なのだろうか? 日本の場合、減災のための予算というのはこれまでにもかなりつぎ込まれてきているし、別に日本版FEMAがなければ予算配分できないというようなこともないだろう。問題は実践的な対応(Response)をするためのICSやNIMSのような統一的、つまり、標準化されたマニュアルなり仕組みを作り、それを研修や訓練などにより全国に浸透させるという部分だろう。この部分は今の内閣府などでは不十分であるように思う。また、日本版FEMA自体が様々な資機材(各省庁共通の通信機器など)や多くの専門家(最低でも10年は人事異動なしの集団が必要である)を保有し、関係省庁では足らない部分を支援できるようにできるならば更によいことは間違いない。

組織化コストの削減

以前の投稿で述べたとおり、物的な標準化、例えば、乾電池のサイズや電圧、電源プラグの形、携帯電話の通信方式、消防ホースのプラグの形などを決めてしまうということは、どこの企業が作った物をどこから持ってきても使えるということであって、その物と物の間にコンバーターや翻訳装置のようなものを挟む必要がなくなる、つまり、組織化コストを削減できるということがメリットである。これらは、物と物の間のインターフェースを決めるということだが、同様に人と人、人と組織、組織と組織の間のインターフェースを決めてしまえば、どこからどのような人や組織がやってきても、同じ仕事をしてもらえるということになり、個別にその都度、人に説明をしなくてもよい、ということになり、やはり、組織化コストを削減できる。つまり、考え方は物と物の間のインターフェースの場合と全く同じである。

ただし、人を対象にした場合には物のように目に見える形や電気的な特性のようなものがないので多少わかりにくい。どうやってやるのか、ということになると文書化、マニュアル化である。やり方や権限、流れ、など、いろいろなことをあらかじめ定義し、決めておき、あらかじめ頭の中に入れておいてもらう、という方法によらざる得ない。人によってはその身についている内容が違うこともあるだろうから、全てのことを知っていれば何でもすることができるわけだが、部分的にしか知らなければ組織の一部分についてなら仕事をすぐにしてもらえるということになる。資格制度というのはそのためにある。

ISO9000などのISOマネジメント規格といわれるものは、基本的に組織の間のインターフェースの在り方について定めている。ISO9000などの認証を得ようとする組織は、規格によって定められた様々な内容の文書やマニュアルを作らなければならない。そして、それらの内容を組織の構成員(会社であれば社員)に対して教育しなければならない。そうすれば、特定の人に依存することなく、誰がやっても同じアウトプットを出すことができる、ということになる。言い換えれば、組織と人の間の組織化コストが下がっている。一個人に属する「暗黙知」に依存する必要がなくなるため、言葉は悪いが人の交換が可能ということになり、製造業などにおいては誰がやっても一定の品質の物が常に生産できる、ということがある程度保証される。従って、ISO9000などの認証を得た企業が政府の安全基準検査などを受ける場合には、生産物は全て同じ品質であるということが推定できるので、生産物ひとつだけ検査すれば十分ということになる。しかし、ISO9000がない企業の場合はバラツキがあるかもしれないので、基本的に全部検査しなければならないということになり、検査だけでも大変な労力が必要になってしまう。

米ICSなどの場合は、組織の間のインターフェースのみならず、組織と組織の間のインターフェース及び人と人との間のインターフェースも定めている。大災害などの場合には、多数の組織が災害現場で共同して作業にあたる必要が出てくるが、その場合においてもそこに集まる組織と組織の間のインターフェースを決めておけば、迅速にどんな組織でも、災害現場にできるであろうより大きな組織に組み込むことができる、ということになる。また、逆に小さなインシデントの場合にはその現場に集まる数人の人で臨時に迅速に小さな組織を編成することもできる。言い換えれば、組織と組織、組織と人、人と人の全ての間の組織化コストが下がっている。米国でICSを「プラグイン組織」とか「モジュラー組織」などと呼んでいる所以である。

米国に日本の災害時に協力してもらうということまで考えたら、米国のICSをそのまま日本に輸入してしまうのが米国と日本の間の組織化コストを下げることができるので最も理想的である。しかしながら、米国と日本の間にはすでに大きな言葉の壁が存在しており、日本語と英語の間は一対一に対応しておらず、また、制度的違い、価値観の違いなども多数あるため、コピペすれば問題が解決するというような安易なものではない。一部の企業などは横文字を輸入しても違和感がなくスムーズにいくだろうが、日本全国津々浦々、山の中の田舎まで将来的には普及させなければならないことを考えたら、最大多数の日本人にとって理解しやすい、言い換えれば、組織化コストが低いシステムを開発したほうがいいだろう。恐らく、日本国内で発生するインシデントの99%は日本人のみによって対応しているであろうから、残りの1%のために米国に合わせるというのも合理的ではない。

また、日本人は米国のものならきっとよいものに違いないと考えがちであり、なんでも米国のモノマネを今でもしたがるが、米国のICSをモノマネして組織だのを編成しただけではなぜそれがよいのかというのが、直感的には理解しにくい。米国の場合は暗黙の常識として明確に書いてない部分がかなりあるように思う。意外とドイツのICSを定めたDV100という規則を読んだ方が重要な項目が全て規定されており、どんなことを決めておけばよいのかということが、わかるかもしれない。

実際問題としては、ISO9000などがあまりうまくいっていないように、組織の標準化というのはそんなに簡単なことではない。米国でICSの普及に30年を要していることからもそれは推定しなければならない。組織と組織の間のインターフェースとして決めておくことができる要素にはいろいろあり、1%決めることも100%決めることもできるわけであるので、一体どこから入っていくのがよいのか、順序なり、長期的な戦略なりをまず検討した方がよいのではないだろうか。現在、我が国おいてもすでに様々な法律によっていろいろな規制があるが、それらはある意味、組織と組織の間のインターフェースを決めているものであるので、今現在標準化された要素が全くないというわけではない。日本の役所と役所の間の壁は外国に比べるとかなり高いのが現実であり、まずは標準化のための戦略が必要だろう。

 

ドイツのICS

数年前、ある仕事でイギリスへ出張したとき、英国沿岸警備隊(HM Coastguard)の方々と話す機会があった。雑談の中で、イギリスのICSについて聞いたところ、ヨーロッパではいくつかの国がICSを導入しているが、一番よいのはドイツだ、と話していた。そこで、インターネットを調べたところ、次のリンク先に英語に翻訳されたドイツ版ICSが掲載されていた。この英訳自体があまりよくないなとは思ったが、今のところ英語版はこれしか見当たらない。

筆者が昨年半分だけ日本語に仮訳したものはコレ(⇒DV 100_JP_Part_1)。続きがいつできるかは全く未定。

防災訓練は”儀式”

15年くらい前に出版された本だが、P.ハットフィールド著(竹内均監訳 赤井照久訳)『東京は60秒で崩壊する』(ダイヤモンド社、1991年)という本を図書館で借りた。以下はおもしろいと思われる部分の引用。

おそらく地球上でこれほど周到綿密な防災訓練のできる国は日本をおいて他にないのではないか。といっても、東京ほど大きなスケールの災害に直面している都市も、また世界にはないのである。訓練はどれほど役に立ったのか? 「この種の儀式をやるのはいいことです」と力武教授は笑いながら言った。儀式? 「そうです、本質的に儀式なんです」と力武は笑った。9月1日の訓練は本物の地震に対しては無意味ではなかったかと、私は國弘正雄(地震対策の充実を政府に働きかけている参議院議員)にたずねてみた。「無意味というのは控え目な表現ですね」と國弘は言う。「おろかだ、馬鹿げている、こっけいだ、と言いたいのです。あの災害訓練を見て、戦時中、B-29の空襲に対抗するためにやったバケツリレーの訓練を私は思い出しましたよ。子供でしたけど、私たちにはあの訓練はまったくムダだってわかっていましたね。」訓練は、おそらく建て前という日本人独特のものの考え方からきているのだろう。現実がどうであれ、うわべだけはていねいにつくろう、というやり方だ。本音という真実は巧みに隠蔽してしまう。訓練は大規模地震にはとうてい役立たないだろうが、とにかく訓練はやりましたという見えせかけだけはできる。そして見せかけが社会関係の中で強い意味を発揮する国では、見せかけることは必要なのである。(P.ハットフィールド著、竹内均監訳、 赤井照久訳『東京は60秒で崩壊する』ダイヤモンド社、1991年、64頁)

今でこそ、シナリオレス訓練も多少行われているようだが、未だに「下手な劇」(筆者がかつてある防災訓練に参加した時の役割は「◯時◯分にFAXのボタンを押す」だったことがある。)のような訓練って多いのではないだろうか。訓練は、シナリオ通りにやってこない災害に対し、柔軟に対応できるか、その問題点を抽出することが目的。シナリオなし(つまり「オールハザードアプローチ」)に、柔軟に対応する仕組みを構築するための訓練を行ってほしいものである(シナリオなしに柔軟に対応するためには「標準化」が必要なんですけどね)。

我が国の災害対応システムの標準化に対する意見

内閣府の災害対策標準化検討会議が報告書(本紙別添)を出した。これに対する当方の意見は以下のとおりである。

(I) この報告書には非常に多数のJargonが含まれている。

標準化の目的は人と人、人と組織、組織と組織の間のインターフェースを定めて組織化コストを削減し、誰でも、どの組織でもが、突然発生する如何なる種類、如何なる規模のインシデントに対する対応チームにでもスムーズに参加できるようにすることである。そのために米ICSなどでは、インシデントへの対応に必要となる組織の機能(Function)、プロセス(Process)、最適監督人数(Span of Control)、階層化された場合の組織名称及びその責任者の名称、現場施設の名称、一定の従うべきルール、管理方法(目標管理(MBO)による)、通信方法などが定められ、それらに使われる用語は平易かつわかりやすいものとし、官公庁関係者のみならず民間機関までをも融合できるようになっている。言い換えれば、Jargon(特定集団以外には意味が伝わらないようなマニアックな言葉)やLocal Language(方言)を排除し、誰でも理解できるようにするということが非常に重要なのである。しかしながら、この報告書には非常に多数のJargonや不適切な翻訳が使われており、これでは官公庁間の理解も進まず、標準化が難しくなるのではないかと危惧している。まずは、米国を参考に我が国のモデルを検討するとしても、その翻訳は、他の国際条約の正式な訳や我が国行政組織がすでに一般的に使用している単語に合わせるべきであり、一部の有識者の趣味等による翻訳にしてしまっては本末転倒であり、同じ意味の単語が別の単語になってしまうため、混乱を招くことになる。例えば、

● P32とP33の図は、同じ米国ICSの組織図を翻訳したのだろうが、異なる訳し方をしている。

英語に戻せば同じCommander, Operation, Planning, Logistic, Administration/Financeなのだろうが、日本語が異なる。これでは同じものが違うものになってしまうであろう。

● P31の翻訳は一部の方の趣味によるものと推定される。その他、不適当な訳語が多い。

ここではCommandを「指揮調整」、Operationを「事案処理」、Planningを「情報作戦」、Logisticを「資源管理」、Administration/Financeを「庶務財務」と訳している。しかしながら、Commandを「指揮調整」と訳するのは全く異なる次元の意味を一緒にしてしまうことであり、不適切である。我が国国内では、英語のCommandは「指揮」と訳され、英語のCoordinationが「調整」とすでに多くの条約等で訳されている。日本語における「指揮」は相手の同意が必要ない行為、同じく「調整」は相手の同意が必要な行為であり、プロセス上、全く異なる意味を持つ。この「指揮」は英語のCommand、「調整」は英語のCoordinationに一対一で対応しており、すでに一般的に定着している。米ICSにおけるCommandも日本語における指揮の意味合いしか含んでおらず、これに調整などという言葉を加えてしまうことは不適当であろう。昨年JIS化されたISO22320においても当初の仮訳時には「Command and Control」を「指揮調整」と、「Coordination」を「連携」と訳していたが、正式なJIS化の段階でJISC(経済産業省産業技術環境局)から修正が入り、「Command and Conrol」については「指揮統制」に修正されている。筆者は「Coordination」も連携ではなく「調整」に修正すべきだったろうと思ったが、JISCは外務省条約局のような精査はしないので、そこまでチェックできなかったのだろう。その他の多くの訳語に、他の国際条約(International Convention on Maritime Search and Rescue(海上における捜索救助に関する国際条約【略して1979 SAR条約】)、International Convention on Oil Pollution, Preparedness, Response and Coopration(油による汚染に関わる準備、対応及び協力に関する国際条約【略して1990 OPRC条約】)、ICAO条約ANNEX 12等)の正訳等にてすでに定着しているものがあり、言うまでもなく、条約の締結に際しては外務省条約局の精密な審査を経て、国会の承認を得ているものであるため、これらと整合性をとっておく必要があることは言うまでもない。仮に、米ICSでの用語がこれらの国際条約等と異なる意味合いで使われているのであれば異なる意訳をすることもありえなくはないが、筆者が見た限り、全く同じであり、別の訳語を無理に作る必要はどこにもない。また、Operationを何故に「事案処理」などと訳すのか。これは素直に「運用」と訳せばすむ話であり、海保や防衛庁などにおいてもすでに「運用」という機能名称は定着しているだろう。従って、これを無理やり「事案処理」などという訳にする必要性はどこにもない。Planningも同様に素直に「計画」とすれば十分であり「情報作戦」などという我が国の関係機関で全く使われていないようなマニアックな機能名称をここで無理に作り出す必要はなく、混乱を招くだけである。これらはICSが排除しようとしている「Jargon」そのものである。P68には「救助・検索」との訳語があるが、これの元の英語は「Search and Rescue(SAR)」であろう。SARの訳も、1979 SAR条約を我が国が締結した時点で「捜索救助」に確定し、定着している。

とにかく、この報告書は、その報告書に使われている用語自体の定義があまく、わかりにくい。

(2)  米ICSの政府公認の仮訳を作り、公表してはどうか。

米ICSについては、様々な有識者やコンサルタントなどがそれぞれの趣味によってバラバラな翻訳がいくつも流通している。Commander, Operation, Planning, Logistic, Administration/Financeなどというのは米国で標準化され、定義された機能(Function)の名称にすぎず、その組織を真似ればよいというものではないが、何かこの組織図に最大の意味があるかのごとく間違った解釈をしている人が数多くいる。このような機能も最終的には我が国として再定義しなければならないと思われるが、不要な混乱を排除し、標準化に対する理解を促進させるためにも、米ICSの主要機能やプロセス、その他の名称・用語などについて、日本政府公認の仮訳を発行してはどうか。あくまでも外国政府の文書なので外務省の審査などというプロセスは当然ありえないが、関係省庁が相互にチェックし、もっとも関係省庁が理解しやすい訳語に定着させるべきであろう。この種の災害対応は、どうしても政府機関が主体になるため、まずは政府機関間で検討していただきたい。なお、米ICS100とか200などのマニュアル類を大量に翻訳する必要はなく、主要な定義部分だけで十分と考える。

検討されている「災害対策標準化ガイドライン」に含めるという形でもよい。

(3) MBOについても標準化すべき要素に含めるべきである。

標準化すべき検討項目があがっているが、目標管理(MBO)について全く触れられていない。MBOは、別の投稿にて指摘したとおり、非常に重要なものである。どのように現場において目標を立てるのかなどについても検討すべきであると考える。

(4) 標準化の進め方

公的な標準化は、一般的には圧倒的多数の支持を得たデファクト・スタンダードが先に作られ、少数派がそれに合わせるという流れになる。例えば、米国でも英国でもドイツでも、消防が作ったICSが多数派であったため、少数派となったその他の役所等が消防に合わせている(例:米国沿岸警備隊がICSを取り込むために作成したIncident Management Handbook参照)。我が国においても消防、警察、海保などインシデント・マネジメントを本来業務とする役所の中に圧倒的多数の支持を得られているマネジメント・システムが存在するのであれば、少数派の組織には我慢してもらって多数派に合わせてもらうというのが自然である。例えば、消防に全国統一マニュアルのようなものが存在しているのであれば、人数的に見れば消防関係者の人数が最も多いと思われるので、他の官庁がそれに合わせるというのがよいと思われる。しかしながら、そのようなものが現在存在しないということであれば、関係省庁や防災機関などに受け入れられやすいものを最大公約数を見つけるような形で作るしかない。東京の本省庁間で調整して作るという手段もあるが、各役所にはそれぞれの現場とアカデミズムの両方に精通した大学校(消防大学校、警察大学校、海上保安大学校、防衛大学校など)があるので、このような各大学校が協力して開発するという手段もあると考える(参考:米ICSは米国消防大学校が開発したもの)。

危機管理における目標管理(MBO)

目標管理(Management By Objective: MBO)と言われると、会社の人事考課に使われている嫌な制度とか、成果主義、結果重視というイメージを持つ人が多いだろう。しかし、これらはMBOから派生した人事管理の様々な派生物に過ぎず、MBOイコール人事考課ではないし、MBOイコール成果主義や結果重視でもない。一言で言えば、MBOとは、人や組織を動かすに際し、逐一ああしろ、こうしろと指示をするのではなく、達成してもらいたい結果だけを示し、それを達成するための手段や方法などは目標を与えられた人や組織に任せるとする管理手法である。企業経営的な観点からは、有名な経営学者であるピーター・ドラッガー氏が1954年に出版した「Practice of Management」という書物の中で提唱したのが最初と言われているが、民間企業などでは、目標設定を上司が一方的に行うのではなく、上司と部下が相談の上、達成可能な目標(例えば売上◯◯円をいついつまでに達成する、◯◯という新しい機能の製品をいついつまでに開発する、などなど)を設定し、その達成状況などを給料に反映させたりしている。この種の企業経営上の成果主義的なMBOは、賛否両論あり、一概にいいとも悪いとも言えないが、ここでは人事考課にリンクしたMBOを議論することが目的ではないので深入りはしない。

MBOは、役所でも使われている。政策評価法(行政機関が行う政策の評価に関する法律(平成十三年六月二十九日法律第八十六号))に基づいて各行政機関は、政策目標などを設定し、その評価を行っているが、これも紛れもないMBOである。行政経営学ではPerformance Measurementとも言われるが考え方は変わらない。実際のところ、各省庁などの目標の設定やその評価は、マンネリ化しており、この法律が意図した政策目標の効率的な達成や継続的改善などは行われていないような感じではあるが、これも当初の意図は、目標を設定し、それを達成するための手段や方法は柔軟に認め、目標の達成状況を評価の上、必要に応じて目標の修正や事業の廃止など継続的改善を実施するというものだった。役所における職員に対するMBOでは、企業のMBOのように給料などと直結したものではないためか、多くの公務員の皆さんは自分達の目標などに対する緊張感もあまりないだろう。

MBOは、米国などではインシデントマネジメントでも使用される。災害等のインシデント発生後、インシデント・コマンダーになった人は、まず、自分自身で自分自身のために目標を設定し、必要に応じて目標を達成するための組織を編成する。組織を編成した場合にも、部下に対して細かな方法や手段まで指示するのではなく、具体的な目標のみを部下に示し、あとは極力委任するのである(米国農林水産省におけるICSの例参照)。よい目標の要件は、

The SMART Concept provides the key characteristics of good objectives.
・Specific: Sufficient detail to understand what exactly must be done, but flexible enough to allow for strategic and tactical alternatives.
・Measurable: Responders will be able to know when they have accomplished the objective.
・Assignable: It can be assigned to a specific resource.
・Reasonable: There is an acceptable probability of success.
・Time-related: How long they have to accomplish the objective.

とあり、具体的であること、測定可能であること、割当て可能であること、妥当なものであること、いつまでに達成すべきかが明確であること、とされている(出典:「Setting Incident Objectives in UC」)。これは、よく考えてみれば、民間企業や政府のMBOでも同じようなことは謳われているものであり、それ自体は別に珍しいものではない。

このようにMBO自体は、その良し悪しは別にしても、幅広く世界でも日本でも企業経営や行政経営などで活用されている。また、米国などでは、災害などのインシデントが発生した後の対応作業(Incident Response)においても非常に短い時間軸の中で行われている。災害対応時の目標は、主として目標復旧時間、言い換えれば、一つの作業を終えるまでに必要な時間、一つの仕事の期限である。

現在日本政府内にて災害対応の標準化が検討されているが、このようなMBOも人と人を結びつけるための極めて重要なインターフェースであるので、目標の設定方法やその評価改善方法などもあらかじめ決めておく必要があるであろう。ただし、通常時のMBOように給料などにリンクさせる必要はなく、また、インシデントコマンダーによって与えられた目標を部下が達成できなかったからといって責任を問うというように責任とリンクさせる必要もない。逆にそのようなリンクをさせると現場の萎縮等につながる恐れがあるので弊害の方が大きくなる。

なお、一部の論文に「目標管理は軍隊型の命令・統制モデルの補完概念」だ、などとしてMBOを米国ICSの最大の特徴として紹介しているものがあるが、上記のようにMBO自体は、ピータードラッカーによって知識労働者の自己マネジメント手段として提唱されたものであって、企業でも行政でも普段から行われているものであるし、米ICSは米国消防大学校によって開発されたものであるので、基本的に軍隊型の命令・統制モデルとも何の関係もない。米国ICSでのMBOは、数多くの標準化されている要素のひとつであり、調整コストを削減するための手段のひとつにすぎない。

災害時における責任の在り方について

最近、柳田邦男氏の書物を図書館から借りてきて片っ端から読みあさっている。理由はいくつかあるが、同氏が日本社会の根底にあるいくつかの構造的要因を明らかにしようとしていたためである。同氏もお年の関係で最近はあまり新しい本を出していないようだが、同氏の航空機事故等に対する分析の視点は非常に鋭く、今、再度読み返しても、参考になる分析は非常に多い。そんな中でも、同氏が指摘している日本社会の責任論的なものについて、筆者は非常に同感している。

日本では、事故があると、「ミスをしたのは誰だ」という責任論・刑罰論優先の発想が圧倒的に優勢である。しかし、「事前にどこかの段階で事故になるのを防げなかったのか」「事故原因にはどれだけの要素がからみあっていたのか」「現場のミスを誘発したいくつもの条件が背後にあったはずだ」といった視点から事故を分析すると、最後にジョーカーを引いた現場の運転員や保守・点検要員の過失責任を問うだけの捜査あるいは調査からでは見えてこない様々な事故要員を浮き彫りにすることができる。・・・・・・(柳田邦男『事故調査』新潮社、1994、233頁)

「ある種の事故は、操縦者が緊急事態を解決する際にその仕事に失敗したことによって生じうるが、もしその仕事が注意深い、平均の、よく訓練の行き届いた操縦者の通常の能力を越えるものであるとしたならば、かかる失敗は正しくは『操縦者の過失』と分類するわけにはいかない」(柳田邦男『航空事故』中公新書、1975、217頁)

他にも類似の指摘が多くの書物に書かれているが、要するに何かあると必ず誰かの責任にしたがる、という点である。4月に韓国でおきた旅客船セウォル号沈没事故では船長がこともあろうに「殺人罪」(注:刑法の「未必の故意」という理論による)で起訴されたが、あれなど典型的な責任の押し付け現象である。確かにあの船長の責任を問いたくなる気持ちは理解できるし、責任がないなどとは言えないが、あの船長は、事故の発生に至る非常に長い因果関係の連鎖のごく末端の一部分に関与したに過ぎず、彼が最後まで船に残っていたとしても、結果は恐らくそう大きくは変わらなかったろう(彼は「犯罪者」ではなく「英雄」になったかもしれないが)。事故の予防や準備体制等もっと深い原因が多数あるのであって、あの船長を処罰することによって、根本的な原因に目を向けることを止めてしまったら、また、同じ悲惨な事故が起きる。韓国海洋警察庁の解体議論も同じようなものだ。韓国海洋警察庁(海警庁)は事故が起きた後に捜索救助(Search and Rescue)活動を行う役所だが、事故直後に迅速に救助活動ができれば犠牲をもっと減らすことができたなどと批判され、それを理由に解体されるのであれば、責任の押し付け合い以外の何ものでもなく、海警庁の連中にしてみれば「こっちも必死に救助活動を行っていたのに人に責任を押し付けるな」と間違いなく思っているだろう。海警庁によるインシデント・マネジメントには多くの改善すべき要素があると筆者も思っているが、それと「解体」などという責任問題とは関係のない問題であり、切り離して考えるべき問題である。

セウォル号事故は韓国の話だが、柳田邦男氏らも指摘しているように同じような責任追及型の風潮は日本でも非常に強い。というよりも、韓国の法律や制度というのはかなりの部分が日本の法律や制度をモデルに作られているので、韓国が日本と同じようになっているという表現の方が正しいかもしれない。韓国の船員法や船舶職員法というのも日本のそれのコピペのようなものだし、「未必の故意」などというのがある韓国の刑法も日本の刑法をひょっとしたらモデルに作られているのかもしれない。

このような過度な責任追及型の社会は大災害などには非常に弱い。多くの人が何か失敗したときにあとで責任を追求されることを恐れて積極的に行動しなくなるためである。筆者がかつて役人をしていたとき、ある大きな事故に遭遇したことがあるが、その時筆者から「この仕事はうちの課で引受ましょう」と上司に提案したところ上司に「いかんいかん。そんな仕事はあっちの課へ振れ。」と拒否された。このように何か大きな事故でもあると、ある特定の部門に仕事が集中し、他の部門も忙しそうにはするが基本的に書類を右から左に転送するだけ、という状態になる。他方、過度な責任追及型社会は、現場への過度な干渉という形でも弊害が現れる。つまり、中央組織が災害現場に対して過剰なまでに報告を求め、現場に対して過干渉、つまり、マイクロマネジメントするという事態になる。これは「あとでマスコミなどから文句言われるのは俺達中央なんだから俺達の指示に従え。」という論理である。例えば、福島第一原発事故時に当時の首相官邸が現場での事故対応に異常なまでに細かい指示を出していたが、これなども「俺達が責任者だ」との過剰認識の下で行われたマイクロマネジメントの一例であろう。

緊急事態には、100%正しい手段などというのは基本的に存在しない。どんなことをやっても失敗する可能性はあるし、成功したとしてもそれはたまたま運良く成功したに過ぎず、全てが確率論の中での話である。そのような中で、個々の救助活動などの責任を追求されてはとてもまともな対応などできないだろう。基本的に緊急事態の場合には、現場を信頼し、任せるしかないのである。大災害ともなれば現場リソースに当然不足が生じる。そのような場合、中央組織などの組織の上位レイヤーは、必要な調整作業を実施して、現場のリソースの不足を補う必要があるが、これはあくまでも支援作業の一種であり現場への指揮命令作業ではないだろう。このような支援作業を怠った場合には、その怠った中央組織などの責任は当然追求されるべきであるが、マイクロマネジメントをしなかったことを理由に責任を追求されるというようなことは逆にあってはならないことである。

緊急時の責任というのは、悪質な故意や怠慢などという場合にのみ追求されるべきではなかろうか。過失や無過失の場合の結果責任にまで責任を追求されるということになると、萎縮を生んで積極的な行動を阻害するか、または、中央組織による現場への過干渉を生むことになり、かえって社会的損失を大きくする。ICSなどは、現場へ責任を全面的に移譲して、標準化された仕組みのなかで現場が自らの判断で動く仕組みだが、日本社会における責任追及の在り方という問題まで合わせて検討しなければ、仕組みだけはできたとしても、それがうまく回っていかない可能性がある。緊急時には現場に任せるが、過失や無過失による結果責任は不問とする、というような権限と責任を切り離した仕組みや社会的環境を醸成する必要がある(参考:ドイツ版ICSでは「協調的リーダーシップスタイルを実践すること、しかしながら、全体の責任についてはコマンドの任にある者が負うこと」(DV100 para.3.1)と規定されている。つまり、責任者は下のものに裁量を与えつつ責任はとりなさい、ということ。) 。

参考までに、この責任の問題と密接にリンクしている問題に、日本の役所の超短期人事異動の問題がある。どこの役所でも1〜2年間隔での超短期人事異動が行われているが、これでは災害のエキスパートが育成できない。役所の短期人事異動というものも何か問題が起きた時の責任の所在を曖昧にするための手段にすぎないが、これでは高度な専門性が必要なエキスパートなどは絶対に生まれてこない。最近は、国家的な災害エキスパートの研修訓練センターを作るべきだという意見も出ているが、このような短期異動が行われていては折角研修訓練を受けたスタッフがすぐに関係のない部署に異動していなくなってしまうことになる。柳田邦男も同じようなことを次のように指摘していた。

非常災害時の情報を活かすも殺すも、情報システムの中核にいる「人」である。つまりキーパーソンである。そうゆう情報担当者は人事異動で1〜2年で代わる人では駄目である。情報担当者は5年、10年と、その道一筋にさまざまな災害事例を学び、人脈を作り、断片的な初期情報から全貌を推定できるだけの勘と能力を身につけたプロフェッショナルでなければならない。私自身、かつてNHKの災害報道システムを作るときから、そのことを痛感していた。(柳田邦男『この国の失敗の本質』講談社、1998、122頁)