標準化とは何か?

標準化とは一言で言うと「組織を作る手段」である。それも何か特別な目的のために誰でもが組織に参加できるようにするためのものである。なお、ここでいう組織とは、人と人との間のものだけではない。物と物、物と人の間でつながったものまで含まれる。

標準化と言えば、その本家本元は国際標準化機構(ISO)であるが、ISOでは実に様々な種類の物やマネジメントシステムの標準が定められている。ISOでは「標準」を

「関係する人々の間で利益又は利便が公正に得られるように、統一し、単純化を図る目的で、もの(生産活動の産出物)及びもの以外(組織、責任権限、システム、方法など)について定めた取決め。 」 (JIS Z 8002:2006)

と定義している。身近なところでは、単1電池や単2電池などといった乾電池の規格やA4やA3などの紙のサイズが国際的に標準化された規格によって作られている例であるし、携帯電話の通信方式なども(これはISOではなくITU(国際電気通信連合)というところで標準化されたものだが)国際的に標準化されている例である。単1や単2といった電池の規格が国際的に統一されていなかったらどのようなことが起きるだろうか? その場合、我々が外国旅行したときにラジオの電池がなくなっても簡単には同じ規格の物を見つけることができないということになる。電池サイズのコンバーターみたいなものでも持っていけば現地で売っている電池を無理やりラジオに突っ込んで使うこともできるかもしれないが、そのようなコンバーターがなければ、サイズが合わず、使いものにならない。乾電池の規格というのは国際的に標準化されているので、このような問題が生じないのだが、国際的に標準化されていないACコンセントの形や電圧をイメージしてみよう。外国旅行してみればわかるとおり、国によってACコンセントの形や電圧は違うので、いつも我々が日本で使っているヘアドライヤーなどを外国に持って行っても、外国のコンセントには日本のコンセントははまらない。どうしても使いたければ空港などで売っているACコンセントのコンバーターを持っていく必要がある。外国のメスコンセントと日本のオスコンセントの間にこのコンバーターを挟めばなんとか使える。更に言えば、日本と外国では電圧も異なっており(日本は100Vだが欧州などは220V)、一昔前なら電圧を変える変圧器(トランス)も持っていく必要があったのだが、最近ではACアダプターの方が100Vから240Vくらいまでに適応できるように作られているので変圧器は不要になった。携帯電話だって同じことである。携帯電話の無線通信の方式が国際的に標準化されていなければ、我々の携帯電話を外国に持って行っても使えないということになる。実際に、第二世代携帯電話といわれた時代は日本だけよその国と異なる通信方式を採用してしまったため(日本はPDC、外国はGSM)、日本の携帯電話機を外国に持って行っても使えないし、外国人がいつもの携帯電話を日本に持ってきても使えない、という事態になっていた。これはユーザーにとっても不便だが、メーカーにとっても日本用と外国用と別々に生産しなければならないということになるので、製造ラインを共有することができず、余計なコストがかかるということになる。標準化されていれば日本用に作ったものをそのまま外国に売ることが出来るのでマーケットが容易に広がっただろう。電波の場合もACコンセントなどのようにコンバーターを作ることも不可能ではないが、誰もそんなものを作らなかったので、第二世代携帯の時代は、日本だけガラパゴス化してしまった。

防災の分野でも、このような例はいくらでもある。阪神淡路大震災(1995年)時に各地から駆けつけた消防車のホースやジョイントの部分の口径が一致していなかったので消火活動ができなかったこと(衆議院議員務台俊介氏「危機管理の標準化を図り防災立国日本の創造を」より)、福島第一原発事故時には全ての電源が失われたので各地から電源車が派遣されたが福島第一原発は米国のGE社製のものだったのでプラグが合わず使い物にならなかったことなども標準化されていなかったがために生じた重大な問題の例であろう。いずれも、あとから反省して標準化されているが、前もって標準化されていればもしや??というような極めて重大な事例である。せめてコンバーターでもあればよかったのにねえ、と言いたくなるが後の祭りである。

他方、標準化は必ずしもよいことばかりではない。標準化とは皆に同じ基準を当てはまることであるので多様性を犠牲にする行為でもある。普通の経済活動であれば多様性こそが命であるのですべてが標準化などされたら何も面白くなくなってしまう。店で売っているものが同じようなものばかりだったら我々はどう思うだろうか。実際にかつてのソ連や東欧などの社会主義国に旅行したことがある人ならわかるかもしれないが、どこのお店にいっても味も素っ気もないつまらないものばかりが売られていただろう。競争経済においては一般的にはデファクトスタンダードなどにより規格を制することが市場を制することにもなるのだが、ニッチなマーケットではそうとも限らず、独自規格が差別化するためのひとつの手段になることもある。電池の例で考えると単1や単2といった電池はどこでも売っているものだが、実際はもっといろいろな電池があり、意図的にどこでも売っているような電池を採用せずに独自規格の高性能電池を採用し、他社と差別化している企業だってある。ユーザーにとっては多少不便だが、その不便さを犠牲にしてでもその高性能電池を採用するメリットがあればそれはそれで正当な行為であり、電池の交換などでも一儲けできるという立派な商品戦略である。

これらの例はいずれも物による標準化の例であるが、標準化は物以外でもできる。ISOにおける「標準」の定義には「もの(生産活動の産出物)及びもの以外(組織、責任権限、システム、方法など)」と記されているが、ここでいう「もの以外(組織、責任権限、システム、方法など)」というのは主としてマネジメント・システムのことである。ISO9000などもマネジメント・システムとして標準化されている例であり、米国のICSもISOとは直接関係はないもののこれらと同様にマネジメント・システムとして標準化されたものの例に過ぎない。このマネジメント・システムの標準化というカテゴリーは非常に広範囲に何でも含むことができ、組織の機能、組織のプロセス、人に割り当てる権限、物やサービスの作り方や方法、更には個人の能力に至るまで定義できるものはなんでも含まれる。ここで重要なのはものごとを「定義」するということである。物の場合は、数字や数式などで定義されるが、物以外の場合は数字ではなく「言葉」で定義しているに過ぎない。このように数字や数式によるものにしろ、言葉によるものにしろ、定義すること、すなわち標準化することの最大のメリットとは何だろうか。それは「組織化コスト」の削減である。物の場合、ACコンセントなどの異なる規格の間をつなぐためにはコンバーターが必要だということを述べたが、組織の機能やプロセス、方法、能力、義務、考え方、責任、権限、様式、手続きなどという抽象的分野についてもそれが言葉によって定義されていなければ、ある人と他の人では解釈が異なるということになってしまい、通訳人や翻訳人が必要ということになってしまう。この通訳人、翻訳人というのもよく考えてみればコンバーターみたいなものだ。要するに変換するための何かが必要になってしまうのである。これらの変換するための労力を総称して「組織化コスト」という。コストとは呼ぶもののこれは決してお金の話だけではなく、労力や時間などといった非金銭価値のものをも含む経済学上のコスト概念である。

米ICSではファンクション(機能)、プロセス、権限、管理方法、資源配分の基準などが標準化されている。ファンクションとは以前の投稿記事でも述べたとおり、機能のことであり、米国ではCommand、Operation、Planning、Logistic、Administrationという5つを基本として更にそれらの下にサブファンクションが定義されているが、これはその機能を定義し、内容を明確化して、関係者の間で理解を共通化しておくということにメリットがあるのである。つまり、ある人にとってのOprerationという仕事の内容が別の人の認識と異なっているとその理解の内容を調整するためにコンバーターつまり翻訳システムが必要になり、言い換えれば、そこに組織化コストが発生する。それを避けるというところに最大のメリットがあるのであって、Command、Operation、Planning、Logistic、Administrationという名の機能組織さえ設ければよいというような単純な話ではないのである。日本にはこの5つの機能をナンタラ部門などと称して意味不明の翻訳組織名をつけ、その組織を設けることに意味があるのだ、などと勘違いしている人が大勢いるが、全く本質を理解していないと言わざる得ない。この5つの機能を設けること自体に意味があるのではなく、機能を定義し、関係者間で理解を共通化しておくこと、つまり、標準化しておくことに意味があるのである。

米ICSでは更にいろいろな内容が標準化されている。例えば、Span of Control(監督限界)という概念である。これは1人の管理者が監督する人数を原則として5人までとして、それを超えたらグループを2つに分けてそれぞれに新たな管理者を置く、というルールである。言い換えれば資源配分の基準である。1人の人が監督できる人数には確かに限界があるだろうと思われるが、現実社会には課長の下に20人の部下がいても別に問題なく運用されている組織だってあるので、ほんとに5人という数字に何か意味があるのか、どこにそんな根拠があるのか、誰かが科学的に証明したのかと問いたくなるが、これは管理者の能力に左右されるところであり、20人監督できる人もいれば、3人しか監督できない人もいるだろう。従って、ある程度機械的に組織分割できるようにみんなで合意できた数字が5人ということである。この数字は、イギリスやドイツのICSでもほとんと同じなので、いわゆる世界的な「相場」というべきものではなかろうか。緊急時には、いろいろなところから応援部隊がインシデント発生現場にやってくるが、そのような応援部隊を迅速に現場組織に編入していくためには、このような基準値が必要なのであって、これも時間との戦いになるインシデント・マネジメントにおいて組織化コストを削減するための有効なツールであり、ルールであろう。

その他、Section、Branchなどという組織編成の上での階層も定義し、何が上位レイヤーで何が下位レイヤーなのかを定義するとともに、Commander、Director、Leaderなどといった管理者名称もどの人がどのレイヤーを指揮する人なのかということを明確化するために定義されている。日本企業などでも名詞をもらっただけではその人がえらいのかえらくないのかよくわからないという階層がたくさんあるが、同じ日本語の中でも企業ごと組織ごとに組織の定義、階層の定義というのは異なっているので、そのような認識のズレが生じるのである。しかし、緊急時にそんなことではやはり組織化コストが増大するだろう、ということでこれらを定義し、明確化しているのである。また、マネジメントの方法としては目標管理(Managemen By Objective(MBO))を採用しているが、これもインシデント・マネジメント構成員に最大限度の自主性を与え、迅速な意思決定を行うために人の管理方法として標準化しているのであり、MBOの対局にあるような指揮官が異常に細かいことにまで口を挟むマネジメントスタイルである「マイクロマネジメント」はダメですよ、と決めているのである。MBOも組織化コスト削減のためのひとつの手段である。

標準化とは簡単に言ってしまえばLocal Languageの排除、つまり、方言の排除ということになるだろう。海上保安庁、消防、警察、防衛などといった組織ごとに、それぞれ業界用語、つまり、方言のようなものが多数あるが、それを極力排除して組織化コストを削減しましょう、というところにインシデント・マネジメント標準化の最大の目的がある。アメリカでは、ICSが官公庁間のみならず、民間へも広がっているが、そのような状態になれば官民間の組織化コストも削減されるので理想的であることはいうまでもない。組織の機能やプロセス、資源配分の基準、様式、ルール等は言ってみれば電源コンセントのプラグの形のようなものであり、このようなものをきちんと標準化し、関係者を訓練し、共有化しておけば、いかなるインシデントが発生しても、応援に来る人や組織をあたかも電源プラグをプラグインするかのごとくプラグインできるようになるのである。

米ICSを狭義にとらえた場合には、組織論的な標準化のみに視点がいってしまいがちだが、標準化というのは先にも述べたとおり、何でも含まれるものであるので、インシデント・マネジメントに関係すると思われるものについては、極力広範に標準化する方向で考えたほうがよい。例えば、通信機器などもこれまで全く標準化されてこなかった最たる例である。海上保安庁、消防、警察、防衛などがそれぞれ別々の周波数、別々の変調方式、別々のデジタル化方式を使っていれば、当然、組織の壁を乗り越えた通信はできない。通常時のルーチン業務であれば閉じた空間内での通信のみでよいだろうが、緊急時にはそれではすまない。この話は筆者が役人をやっていたころからあり、もう30年も前からある話だが、事ある毎に「全省庁共通の通信機器を作れ!」みたいな圧力が内閣官房あたりからかかり、検討したりはするが、出てくる答えはいつも「いざというときには当方のトランシーバーをお貸しします。・・・」みたいなことでお茶を濁しており、未だに解決していないだろう。情報システムなども同様である。関係省庁の情報フォーマットを標準化し、情報交換しやすくすれば情報共有ができるが、これもそんなに簡単にできるものではない。

標準化と聞くと、マイナスのイメージを浮かべる人がかなりいるが、そのような人にはまず、災害時のような緊急時には各組織などが組織化コストが高いことを理由にバラバラに行動することをよしとするのか、という問いに答えてもらいたい。先にも述べたが、標準化の反対は多様性の維持であるが、通常の経済活動であれば新たな創造や付加価値を生むために多様性は極めて重要であるが、少なくとも災害時などのように多くの人が協力しなければならないような分野については標準化した方がよいということを理解してもらいたい。緊急時には多様性は阻害要因になる。関係者間の情報の流通を滞らせ、意思疎通を阻み、誤解を生み、意思決定を遅らせ、被害を広げる、という循環になる。緊急時にも通常の経済活動のように競争原理を働かせ、各役所が競争して救助にあたったほうが成果が出るということを誰か証明してくれればそれはそれでよいと思うが、今のところ、理論上も経験則上もそんなことはありえない。

よく考えてみれば標準化というのはユーザーデメリットを削減する必要がある場合に行われている。乾電池の規格が異なっていれば困るのは一般消費者であり、統一した方が全体としてメリットを享受できるだろうと考えたから標準化されているのであり、ISO9000のような品質管理のマネジメントシステムの場合もある程度各企業の品質管理メカニズムを標準化した方が不良品が少なくなり、多くの人にメリットがあるだろうと考えられたから標準化されているのであろう。ISO9000のようなマネジメント規格は、企業などにある様々な種類のマネジメントのごく一部を標準化しているに過ぎず、決して企業経営それ自体を標準化しているわけではない。そんなことをしてしまえば多様性が損なわれる。

標準化するにはそれ自体に交渉コストがかかる。役所の現在のマネジメントシステムを修正するにもそのための労力や調整に要する時間など目に見えない膨大な無形コストが発生するし、通信機器などの箱物まで標準化しようとすれば目に見える多額のお金というコストも必要になるだろう。アメリカのICSをそのまま持って来ればよいというような簡単な話ではない。そんなことをすると日本の既存組織が、既存のものを全て捨てて馴染みのない考え方や定義を吸収しなければならないこととなり、それにも膨大な学習コストがかかる。

参考:失敗する標準化:「納得感」なければ誰も標準を使わない

個人的には、日本独自に標準化してもよいし、アメリカのコピペをしてもよいとは思うが、いずれの場合でも関係者に納得感を与えるものでなければ機能しないだろう。納得感を与えるためには標準を作る段階からその利用者を十分に巻き込んで意見を聞くということが極めて重要である。ISO9001の認証を得るために他の企業が作ったマニュアルを適当に修正するだけで認証をとっている企業が多いが、このような企業でそのマニュアルに対する反感が強いのは、この納得感が従業員の間にないからであろう。

関係者に納得感を与えるためには膨大なコストがかかるが、そのコストは今かけておけば、大災害時にはそれを回収することができるということを強調したい。

標準化の種類と戦略

 

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