意思決定のための資源配分

誰が何を意思決定すべきか、つまり、「何かを決める」(権限)という組織の機能に対して誰を割り当てるか、という人的資源の配分問題であるが、私はこれが危機管理や緊急時のマネジメント(これらを「インシデントマネジメント」と呼ぶことにしている。)の問題の核心であると考えている。言い換えれば、インシデントマネジメントの良し悪しは、権限に対する資源配分の良し悪しにかかっている。これは、緊急時ではない通常時のマネジメントにおいても同じことかもしれないが、通常時は、時間という資源が豊富にあり、また、物や人などの資源も時間さえあればかなり自由に集めることができる。しかし、緊急時には「時間」がないことに加えて利用可能な物や人、情報などの資源も不足する。つまり、緊急時にはあらゆる資源が不足する。このような厳しい資源制約の下での資源配分を意思決定しなければならないので、通常時以上に、意思決定者を誰にするかという問題がより重要になる。意思決定者を誰にするかという問題も、「権限」(組織の機能)に「誰」(資源)を割り当てるかという資源配分の問題であるが、物や人員の資源配分の良し悪しは、意思決定者を誰にするかという資源配分の良し悪しによって左右される。従って、この問題は、マネジメントシステムの根幹(Root Cause)をなす部分と言える。

意思決定者は誰にすべきか。社長が一番偉いのだから社長なら何でも決めることができる、とか、総理大臣が一番偉いのだから総理大臣なら何でも決めることができる、と言う人もいるだろう。実際、そう考えている人は非常に多い。大企業や官公庁など多くの通常組織は社長や大臣を頂点とするピラミッド型の官僚制組織の形態をとっているのでそのように思うのだろうが、よく考えてもらいたい。鉛筆一本買うのにいちいち社長の許可を得ているだろうか。鉛筆一本買うにも会社のお金を使わなければならないので社長の許可が必要と考えるのは当然かもしれない。しかし、数人でやっているような小さな企業であれば、ひょっとするとそんな企業もあるかもしれないが、何千人、何万人という人が働いている企業でそんなことになったら、社長はパンクし、他の仕事ができないだろう。実際には様々な意思決定権限の委譲や委任が行われているはずである。そして、社長たりとも必ずしも何でも決められるわけではない。株式会社であれば株主がいる。会社を所有しているのは株主であるので、株主の方が上である。しかし、日々の経営にまで口を挟んでいては株主も日が暮れてしまう。そこで、株主は社長に日々の経営を委任しているのである(所有と経営の分離)。従って、社長たりとも何でも決める権限を持っているわけではなく、幹部人事などについては株主総会を開いて株主の承認を得なければならない。

政府機関、行政機関についても基本的に同じことが言える。日本ではなぜか官尊民卑の思想が非常に強いが、行政機関のトップは選挙で選ばれた政治家が通常は割り当てられる。日本という国の所有者(主権者)は日本国民であり、その所有者たる国民が選んだ人間が日々の運営を行っているだけのことである。さらに行政官は国民が選んだ政治家が作る法律によって権限の委任を受けた範囲内で仕事をしているにすぎない。

しかし、所有者らから権限の委任を受けた人たちが、常にその所有者の期待に沿うように働くとは限らない。また、ルール違反をしないとも限らない。そこで、事前にチェックしたり事後的にチェックするための監査組織や情報公開制度などのようなさまざまなガバナンスの機能が社会には設けられている。さらにひとつの意思決定によって、直接的または間接的に影響を受ける人たちもいる。そこで、通常はひとつの意思決定の前にそのステークホルダーの利害を調整するための調整会議のような場が設けられる。

このように考えると意思決定は、意思決定の対象に関して所有権を有する所有者が意思決定することを基本としつつも、所有者が日々細々としたことの意思決定に関与することが現実的ではない場合には第三者に権限の委任が行われ、委任を受けた意思決定者が各種のガバナンスを受けながらステークホルダーと利害調整をしつつ、日々の意思決定が行われていると考えることができる。

では、所有者はどのような人に意思決定を委任すべきか。これは「速度」と「正確性」という2つの要素によって決まる。

意思決定は常に、可能な限り低いレベル、行動に近いところで行う必要がある(第一原則)。同時に意思決定は、それによって影響を受ける活動全体を見通せるだけの高いレベルで行う必要がある(第二原則)。(P.F.ドラッカー[2001]、「マネジメント 基本と原則」、ダイヤモンド社、192ページ)

ドラッガーの第一原則は「意思決定の速度」を早めるためには、実際に行動を起こす本人またはそれにできるだけ近い人、ピラミッドの階層で言えば、その底辺に近いレベルで行われるのが望ましいということである。また、第二原則は、「意思決定の正確性」を高めるためには、その意思決定に必要な情報や経験を持った人、ピラミッドの階層で言えば、できる限り上のレベルで行われるのが望ましいということである。従って、この2つはこちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たないというトレードオフの関係にあることになり、2つの間のどこに置くかという問題に帰結する。

企業の長期戦略のように時間的に意思決定を急ぐ必要がないものであれば、会社全体を見渡すことができる社長が行うべきであるし、文房具の購入などのようにそれが会社のコストなどに大きな影響を与えることもないようなものであり、かつ、すぐに必要なものなどであれば、個々の職員に「月にいくらまで範囲だったら自由に支出してよい」などのように権限を委譲しておき、現場判断で実施できるようにしておけばよいというだけのことである。

一般的にはピラミッドの底辺、すなわち、現場で急いで意思決定しようとすればするほど、正確な意思決定に必要な情報が不足し、全体としては不適当な意思決定になりがちである。そこで日本の企業や行政機関の多くが、緊急時には電気通信や情報システムを駆使して、社長や大臣・知事などといった中央に全ての情報を集めて意思決定しようとする。

しかし、このような仕組みだと、中央は情報が必要なために現場に対して次から次へと「今どうなってんだ! 報告しろ!」と報告を求めるため、現場はこの報告のためだけに貴重な時間と労力が消費され、もっと重要な仕事ができなくなる。さらに、意思決定を行う所が現場から離れていればいるほど電気通信に依存することになるが、この電気通信の手段が大災害のときには往々にして使用できなくなるため、意思決定ができなくなる。更に大組織になり、ピラミッドに中間階層が多数あるような場合には、各中間レベルの組織が通常時と同じような情報の流れを求めてくるため、情報を右から左へと転送するだけの組織が多くなり、これらの中間組織で伝言ゲームが発生し、情報が正しく伝わらなくなり、かつ、情報伝達に時間がかかるようにもなる。緊急時にこのような中央集権的な仕組みをとるのは意思決定の「速度」と「正確性」の両立を図ったつもりなのだろうが、結局のところ、そのどちらも果たせなくなり、現場も中央も大パニックになって被害が拡大する、ということになるのである(⇒初動対応における意思決定)。

このような中央に情報と権限を集中させる仕組みも比較的小規模な災害なら機能するだろう。しかし、大規模災害になればなるほど、仮に中央への全ての情報伝達がうまくいったとしても、中央組織では情報過多となり、マネジメントしきれなくなる。企業のBCPなどでも東京の本社に緊急時に情報と権限を集中させようとしているところは多いが、これも、通信回線が生きている場合で、かつ、地方拠点の1~2か所がダウンする程度の事態の場合には機能するが、地方拠点が何十か所もダウンするような事態になった場合には機能不全を起こす。マイクロマネジメント(トップが末端の細かな作業にまで口を出すこと)が大規模災害時に機能することは100%ない。

ではどうすべきか。逆さまに考えればよいのである。そのヒントは米軍にある。米軍はかつて司令部に情報を集めて意思決定していた。しかし、ソマリアの戦闘時には司令部の命令なしに発砲することができなかったために敵の攻撃にあって多くの犠牲者を出したという。このため、米軍は最前線の兵士に情報システムを駆使して情報を集め、最前線の兵士が自ら意思決定できるようにした。兵士が自ら意思決定できれば当然意思決定の速度は最速となるし、情報システムによって必要な情報があれば意思決定の正確性も増す。正に速度と正確性の両立を図っているのである。このために米軍が開発した情報システムがCOP(Common Operational Picture:共通情報図)である。兵士のヘルメットに小さな液晶画面をつけ、そこにいろいろな情報が表示されるようにしているのであろう。日本ではCOPを中央組織の意思決定のためのものだと勘違いしている人が非常に多いが、米軍の発想は全く逆であり、情報システムを駆使して現場最前線に情報を集め、現場が自ら意思決定できるようにしているのである。この仕組みであれば、仮に電気通信回線が被災し、情報システムが使えない場合でも、少なくとも限られた情報によって不正確ながらも意思決定することはできる。緊急時には「速度」と「正確性」のどちらを優先すべきかと問われれば「速度」である。時間がないから緊急なのであって、多少間違っていても、迅速に意思決定する必要があるのであり、意思決定不全が生じるかもしれないような仕組みとすべきではない。(⇒災害時は逆ピラミッド型組織

では緊急時における中央組織の役割は何か。それは現場の支援に徹するということである。現場からの求めに応じて、資機材や支援物資、専門家、応援部隊の派遣や情報の提供などを調整するということであって、現場で可能な意思決定に介入し、マイクロマネジメントすることではない。

このように「所有」「速度」「正確性」という視点から緊急時の意思決定者について考えると次のようになる。

  • 「緊急避難の意思決定」:津波が発生したときに逃げるか逃げないか、どこへ逃げるか、船が沈没しそうなときに海に飛び込むか飛び込まないか、などの意思決定者は被災者本人である。行政などにできることはその意思決定を支援するための情報の提供のみである。自分の体の所有者は自分自身であり、その意思決定権は自分以外にはない。第三者がその意思決定を強要することはできないし、逆に本人が第三者にそれを委任してしまうのも自分自身に対して無責任である。意思決定に必要な情報を行政などに要求することは当然の権利だが、情報がない場合でも速度を優先し、自分で意思決定して、行動を起こさなければならないだろう。
  • 「応急対応に関する意思決定」:火災の消火方法、けが人の治療方法、倒壊建物からの生存者の救出方法、遭難者の捜索方法、原発事故への対応方法、被災工場への対応方法、交通事故への対応方法など速度が要求される意思決定の権限は、基本的にすべてその現場にいる救助隊にある。現場に適切な専門知識を持つ者がいない場合は、適切な専門部隊(例えば消防車、医師、エンジニアなど)の支援を要求することができる。このような場合の意思決定権限は、初期の対応者から専門家へと引き継がれる。救助隊に救助を求めるということは、自分の力で自分自身を守ることが困難になったということを意味しているので、その時点で救助隊に対して所有者たる人から救助隊に意思決定権限が委任されたとみることができ、専門家に引き継ぐという行為は意思決定の正確性を増すために権限が委譲されるものである。
  • 「復旧に関する意思決定」:被災した道路、鉄道、工場、プラント、オフィスなどを復旧することに関する意思決定は、速度よりも正確性を重視して、全体として最適なプランを立てることが望ましいので、中央組織などのような組織の上位レイヤーが積極的に意思決定に関与すべきだろう。

ここで正確性を犠牲にしてでも速度を優先し、現場に意思決定を任せようとすると必ず問題になるのが「責任」の問題である。しかし、責任を取らされることを恐れて現場が意思決定できなくなると元も子もない。よく優秀な上司は仕事を部下に任せて責任だけはとると言われるが、同じように緊急時には現場に任せて責任だけは社長はとる、というような仕組みを制度的に設ける必要があるだろう。

1995年函館で全日空機ハイジャックが発生したときの北海道警本部長だった伊達氏の言葉:「私の方針は現場の仕事には口を挟まない。できるだけ気持ちよくやれるような環境を整える方向に力をいれようと。ただ、県だとか国だとかを揺るがすような、耳目を引くような大きな事件が起きた時だけは、自分一人で判断してその時は責任を取る覚悟でやらなくてはいけない。それが自分としての心得ですね。」」(⇒恐怖のハイジャック16時間の記録

 

釜石の奇跡と洞爺丸事故/セウォル号事故

青函連絡船「洞爺丸」の沈没。この悲劇を今となっては知っている人も覚えている人も少ないだろう。今から62年前のちょうど今日のことである。1954年(昭和29年)9月26日の夜、青函連絡船「洞爺丸」は、洞爺丸台風とも呼ばれる極めて強力な台風15号に遭遇し、函館の七重浜沖で沈没・転覆した。「洞爺丸」だけで1155名、同時に沈没した「十勝丸」「第十一青函丸」「北見丸」「日高丸」を合わせると5隻の同時海難で計1447名の乗員・乗客の命が一度に失われた。生存者は、「洞爺丸」で159名、5隻を全て含めても202名にすぎない。(注:犠牲者の数は資料によりバラつきがあり、正確な数字が把握されていない。上記の数字はWikipediaによる。)

タイタニック号事故(1912年4月14日発生、乗員・乗客約1500名死亡、生存者約700名)は、映画にもなっているので多くの人が知っていると思われるが、洞爺丸海難は、世界的に見ると、このタイタニック号事故に次ぐ大参事であり、日本国内では海難史上最悪の事故である。

他方、2014年4月16日に韓国で発生した大型旅客船「セウォル号」海難は記憶に新しい。修学旅行中の多くの高校生が亡くなった。こちらも、295名死亡、行方不明9名、生存者172名という韓国国内海難史上で最悪の事故であった。

この洞爺丸海難とセウォル号海難、いくつかの点で類似しており、考えさせられる。なお、ここでは洞爺丸海難の詳細については説明しない。インターネット上のいくつものサイトで詳しく説明されているし、出版物も多い。私は、以下の書物を参考にした。(特に上前淳一郎[1987]は一読の価値大。)

韓国のセウォル号事故では「船内で待機せよ。」という船内放送が流されていたため、この指示に従っていた多くの高校生が船内に閉じ込められ、逃げられなくなったことが原因だ、として船長が殺人罪で起訴され、死刑まで求刑された。判決は殺人罪については無罪、業務上過失致死として懲役36年となったようだが、それにしても、船長や乗組員に責任を押し付け過ぎだと感じる(注:日本の刑法では業務上過失致死は5年以下の懲役または100万円以下の罰金であり最大でも5年である。過失犯で36年の懲役などというのは信じられない。)。世論が誰かの責任にしたがるのはよくあることだが、それにしても、韓国検察が「死刑」を求刑するなどというのは、あまりにも大衆迎合主義に偏り過ぎであり、事実を覆い隠すことにもつながってしまう。恐らく、最大の原因は、過積載や不適切な船体改造などであり、それを見逃したか、見て見ぬふりをした検査当局の役人の責任の方が遥かに大きい。負の因果関係の流れの中で最後のジョーカーを引いた人間に全てを押し付けるなどということがあってはならない。(⇒災害時における責任の在り方

洞爺丸事故もそうだった。当時の海難審判は、船長に全ての責任を押し付け、船長の過失ということで終わった。しかし、このときの近藤船長(救命胴衣もつけずに最後まで最善を尽くして亡くなられている)は、誰の目から見ても台風の目が通過したと思われたため即座に出港を決断したのであって、それが台風の目ではなく、閉塞前線の通過に伴う一瞬の晴れ間だったなどとは、レーダーや気象衛星もない当時の気象技術などからは誰も見抜けなかったろう。それに台風の時は、船舶を岸壁に係留しておく方が危険であり、船を沖出しするというのは船乗りなら今も昔も常識である。同船長は、非常に注意深い人として知られ、当時の状況と判断基準からは、全て常識的に妥当だと考えられる判断を下していた。

対照的なのは、タイタニック号事故である。原因調査が審判委員会により行われ、スミス船長(事故で死亡)に対しては「多くの船長達が経験によって無事故だった航法をとったのだから過失として責められないが、将来同様のことが起きたら疑いもなく過失となる」(田中正吾[1999]、4ページ)とされた。これは、キリスト教を基盤とする欧米文化と仏教や儒教を基盤とする日本や韓国の文化の違いとして片づけることもできるが、日本も先進国を自称するなら、過失に対する過度な刑事責任の追及についてよく考えてみる必要がある。

ちなみに米国の刑法(米国の場合、連邦制のため、各州が独自に刑法を定めている。)では、どの州でも日本の刑法に定められているような過失犯という犯罪が存在しない。かつて、練習船えひめ丸と衝突事故を起こした潜水艦のワルド艦長が来日を拒否したのも米国にはない業務上過失致死などの日本特有の犯罪で逮捕されることを恐れてのことである(⇒Yahoo知恵袋)。米国などではなぜ、日本のように過失犯を処罰しないのだろうか。それは、刑事捜査では事故の原因を明らかにすることが困難だからである。事故は、人間の過失によってのみ起こるものではない。複雑なシステムではシステムの流れのどこかに不適切な部分があるから事故が誘発されるのである。それを追求するためには、事故を起こした本人にありのままを話してもらう必要があるが、刑事責任を問われれるということになると、本人は事実を話すことを躊躇してしまうだろう。だから米国では過失犯については刑事責任を問わずに、事故の原因調査を優先させる(⇒ヒューマンエラーと刑事法)。(注:民事上の過失は別問題)

日本や韓国では、事故などが発生した場合、誰かを処罰しなければ世論が納得しない(責任志向)。これに対して米国などは、原因を解明し、将来に生かすことを優先する(原因志向)。私は、この責任志向の文化が、災害時に意思決定の回避や遅れを生じさせ、現場レベルでは意思決定できず、東京の中央官庁間などで責任の押し付け合い現象が発生する最も根本的な原因(Root Cause)ではないかと思っている。事故も災害も同じである。実行行為者本人は最善だと思っていることがほとんどである。それを結果論的に、「こうすれば助かったのだから、おまえが悪い。」と言ってしまうと、緊急時に誰も意思決定できなくなる。災害や事故の際は、実行行為者に何か特別な悪意でもない限り、その意思決定の責任を追及すべきではない。災害や事故時の意思決定に100%正しい正解などはそもそも存在しない。少なくともタイタニックの調査委員会のように「多くの船長達が経験によって無事故だった航法をとったのだから過失として責められないが、将来同様のことが起きたら疑いもなく過失となる」ということにする必要があるだろう。「責任志向から原因志向へ」、このような社会的コンセンサスを醸成することが災害マネジメントを改善する上で必要不可欠である。

さて、話をセウォル号の「船内で待機せよ。」の問題に戻す。実は、これと全く同じことが洞爺丸の中でも行われていた。当時の洞爺丸の乗組員達は、乗客たちが焦ってデッキにでることは危険と思い、乗客たちに船内に留まるよう案内し、加えて乗客が船内から外に出られないように多くの扉を外側からロックして中から開けられないようにしてしまったのである。恐らく、乗組員達は、まさか洞爺丸が転覆するなどとは夢にも思わなかったのだろう。しかし、結果的にこれが犠牲者を増加してしまった。船外に脱出して生き残った乗客の田村豊作(42)と川崎哲志郎(27)は次のように述べている。「二人ともボートデッキへ脱出していて海に飛び込み助かったが、ボーイや乗組員の注意に従って密閉された船室内にいた人は、そのまま海底へ沈んだようだ。今でもはっきり思い出されるのは二等客室の光景だ。客室内通路に救命具をつけたお客さんがぎっしり腰をおろしていたが、船が大きく傾くとその客が低い方へゴロゴロころがっていく。ボーイは絶対客室の戸を開けようとせず、海中に飛び込んではいけない、と声をからして注意していた。もし、早目に船を離れていたらもっとたくさんの人が助かっていたと思う。」(田中正吾[1999]、135~136ページ)

セウォル号や洞爺丸の乗組員達は、殺人で起訴した韓国検察が主張するように乗客が死んでもいいと思ってそんなことをしたのだろうか。まず、常識的にはそんなことは考えられない。恐らく彼らはまさか船が転覆するとは思わなかったため、海に飛び込むより船内の方が安全と考えたためだろう(⇒正常性バイアス)。あるいは、パニックが起きることを警戒し(⇒但し、パニックは神話)、船内マニュアルでそう指導するように書かれていたのかしれない。しかし、結果的にこの判断は誤っていたのである。重要なことは、セウォル号でも洞爺丸でも、乗組員の指導を無視して、自分の判断で早目に海に飛び込んだ人が助かっているという事実である。

これは、全ての災害に共通して言えることである。災害時に行政などの言うことなどを信じたために命を落とした人は極めて多い。例えば、東日本大震災時の釜石でも全く同じことが発生していた。行政が用意した津波避難所に避難し、ここは行政が大丈夫だといっている場所だから大丈夫だと信じていた多くの人が津波に巻き込まれたのに対し、イザというときは、行政の指導など無視してもいいから、自分ひとりだけでも、より高いところ、より高いところへと早目に避難しなさい、と群馬大学の片田敏孝教授らの教育を受けていた小学生たちは、ひとりの犠牲者も出さずに助かった。「釜石の奇跡」と呼ばれているこの事実とセウォル号や洞爺丸の生存者の行動、私には全く同じに見える。

緊急事態では、行政や船員の指示が正しいとは限らない。例えば、行政が豪雨の際に避難指示を市内全域に出したとする。しかし、夜間だったり、高齢者だったりした場合、行政が指示した小学校に行くよりも、家の2階に避難した方がよいという場合もあるだろう。あくまでも、行政は一律にしか指示を出せないが、個別に判断した場合、それが正しいとは限らない。最終的には、自分自身で判断するしかないのである

なお、結果的に、船が転覆しなかった場合、船内に留まっていた人が助かり、早目に飛び込んだ人が命を落とすこともあるだろう。上記の豪雨災害の例でも、ムリをしてでも小学校に避難した人は助かり、家の2階に避難した人は水没してしまう可能性だってある。緊急時は、最終的に次に何が発生するかは誰にもわからない。ケースバイケースで判断するしかなく、非常に難しい意思決定である。

セウォル号の事故の裁判では被告側で「頭のいい人間は生き残った」と発言し、遺族の怒りを買った者がいたらしい。発言を聞いた傍聴席の遺族は「うちの子がばかだから死んだというのか」と声を上げたという(⇒NAVAR)。この愚かな発言には私も憤りを感じる。素直に船員の指示に従った高校生を非難することは誰にも当然できない。高校生達に責任はない。しかし、もしも釜石の奇跡を生み出したような指導を誰かが高校生達に行っていたら、結果はもう少し違ったのかもしれないと思う。問題は、誰もそのような指導をしていなかったということである。

最後に群馬大学の片田教授の書物から一部を引用しておきたい。

「避難というのは、本来は三つの考え方で理解されるべきだと思います。英語では三種類に分類されています。

一つは、緊急避難。命からがらの避難です。例えば、津波をイメージしてください。避難勧告の有無など関係ありません。津波が来たら、他人の建物であろうが、鉄道の高架であろうが、電信柱であろうが、駆け上がるわけです。こうゆう、命からがらの緊急避難をエバキュエーション(evacuation)といいます。

二つ目は滞在避難、シェルタリング(sheltering)です。体育館などの避難所で一時生活をするような避難のことです。

三つ目は難民避難、レフュージ(refuge)といいます。避難をしたが、家に戻れないので仮設住宅で生活しているような状態です。これは本来、難民生活というべきですが、日本では避難生活という語で済ませています。

この三つの避難のうち、行政が対応できるのは滞在避難と難民避難です。これはしっかりやるべきです。しかし緊急避難、エバキュエーションについては、個人個人みんな条件が違いますから、その主体を国民に返していくべきではないかと私は考えているのです。要するに「自分で判断しましょう」ということです・・・・・・」(片田敏孝[2012]、「人が死なない防災」集英社新書、210~211ページ)

ただし、片田氏もハザードマップ、警戒区域の指定、どの他の方法により、どこが危ないかという知識を提供するとともに率先避難者を養成する必要があるとも述べている。

また、過剰な行政依存について警鐘を鳴らしている。2004年新潟豪雨災害では状況の進展が早く、避難勧告、避難指示がうまく伝わらなかったことに対し、住民は「浸水が進んでも避難勧告がなく、避難できなかった。市の責任は重い」と怒ったという。一見最もだが、

「水が来た。だけど、逃げろと言われなかったので逃げなかった。市の責任は重い。」あなたは逃げろと言われなければ逃げないのか、と言いたくなるような状況がここにあります。・・・・「避難勧告がなかった。市は何をやっているのか」と怒ってばかりいる。いったいどうなっているのだろう、と思うわけです。(片田敏孝[2012]、「人が死なない防災」集英社新書、222~223ページ)

冷たいようだが、災害時にエバキュエーションするかどうか、船が沈没しそうなときに海に飛び込むかどうか、これらは自分自身で判断し、決断して、動かなければならない、ということである。社会は、そのような場合に最適な判断ができるよう教育や情報の提供といった手段で支援していくことしかできないだろう。

「もんじゅ」はシビア・アクシデントに対応できるのか?

霞が関が高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉の検討を始めたことに対し、交付金が減ることを恐れる地元敦賀市は「非常に遺憾だ」などと述べ、「もんじゅ」の安全性よりも、目先の地元経済への影響ばかりを懸念している。敦賀市は、政策として、市民と安全と目先の金とをどのように天秤にかけ、優先順位付けしているのだろうか。原発交付金依存体質丸出しの態度である。(⇒「もんじゅ:避けられぬ交付金減少 懸念が広がる地元・敦賀」)

さて、もんじゅは、ウランを燃やす普通の原発と異なり、核分裂の連鎖反応を起こしウランよりも遥かに強い放射線を出すプルトニウムを燃やす特殊な原発であり、その冷却にはナトリウムが必要である。そして、ナトリウムというのは水と反応すると爆発的に炎上する。普通の原発は、どこにでもある水でも海水でも冷却できるが、もんじゅはナトリウムがないと冷却できない。

人間が作るものに100%安全などというものは存在せず、インシデントやシビア・アクシデントを100%防止するなどということは不可能である。必ず、予期せぬ事態は発生する。ナトリウムがないと冷却できないようなプラントにおいて、予期せぬインシデントに対応することが可能なのか、福島のようなシビア・アクシデントが発生した場合、それをコントロールすることが可能なのだろうか。

福島の場合も、事故が起きる前は、全電源が喪失するなどという事態が発生することは全く想定されていなかった。しかし、それでも、システムとしては、全ての電源を失い、電源を使った冷却ができなくなった場合でも、空気で冷却できるようにはなっていた。福島では、運転上の問題などにより、それもできなかったので、メルトダウンという最悪の事態になってしまったが、それでも、メルトダウンした核燃料を海水で冷やすことはでき、今でも冷やし続けている。

福島のような全電源喪失、メルトダウンという事態がもんじゅで発生した場合、冷やし続け、かつ、放射線の外部への放出を抑えることは可能なのか。ナトリウムなど、海水のようにどこにでもあるような物質ではないし、取り扱い方が非常に難しい物質である。それでも何とかする手段を準備しているのだろうか。この点を明確に説明してほしい。

原子力村では都合の悪い想定はしないことが多いので、もんじゅの場合も「そうゆう事態は発生しません。」などという前提条件になっているのではないだろうか。だとすれば、これはリスクマネジメントが全くできていないことを意味する。もんじゅは、極めて政治的に強引に進められてきた傾向が強いので、様々な点で論理的におかしいと思われる点を無視してきているのではないだろうか。それゆえに現場の技術者も「こんなことやっていられるか。」という思いが強くなり、あげくのはてには報道されているような膨大な量の点検漏れなど安全管理の不徹底という組織文化が生まれてきたのではないだろうか。

もんじゅのような極めて大きなリスクを背負う組織で安全を重視しない組織文化が生まれている背景に何があるのか。そこを分析し、改善しない限り、もんじゅを廃炉にし、核燃サイクルを維持するために別の新しい高速炉をフランスと共同開発したとしても、また、同じような組織文化が醸成されていくだろう。今一度、よく考えてもらいたいものである。

 

右のサイトが非常によくまとまっており支持できる。⇒ 「もんじゅで今起きていること

 

パニック神話

 次の 1と 2のうち、どちらが正しいだろうか。

  1. 地震や火事に巻き込まれると、多くの人びとはパニックになる。
  2. 地震や火事に巻き込まれると、多くの人びとはパニックにならない。

答えは 2である。災害や事故に出会って、平常心でいることは難しい。恐れや不安を感じるのは、ごくあたりまえのことだろう。ただそれが、直ちに大勢の人びとが先を争って、お互いがお互いの進路を邪魔する敵のように、互いに踏みつけたり、押しつぶしたりして死傷者を生じるパニックが起こることにはつながらない。つまり、異常行動としてのパニックは、多くの災害や事故ではあまり起こらないのである。パニックはまれだ、というのが専門家の「常識」なのである。。(広瀬弘忠、「人はなぜ逃げおくれるのか」、集英社新書、P14~15)

 

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正常性バイアス

私たちの心は、予期せぬ異常や危険に対して、ある程度、鈍感にできているのだ。日常の生活をしていて、つねに移りゆく外界のささいな変化にいちいち反応していたら、神経が疲れ果ててしまう。その結果として想像できるのは、いつもピリピリしている神経症状態にある大勢の人々であり、社会性に欠けたギクシャクした世のなかだろう。そこでは、まっとうな日常生活は崩壊してしまう。そのようなわけで心は、”遊び”をもつことで、エネルギーのロスと過度な緊張におちいる危険を防いでいる。ある範囲までの異常は、異常だと感じずに、正常の範囲内のものとして処理するようになっているのである。このような心のメカニズムを、”正常性バイアス”という。この正常性バイアスが、身に迫る危険を危険としてとらえることをさまたげて、それを回避するタイミングを奪ってしまうことがある。(広瀬弘忠、「人はなぜ逃げおくれるのか」、集英社新書、P11~12)

 

他人の判断に依存するべからず

今日の日曜討論は、北海道・東北豪雨についての特集だった。様々な防災学者が出演していていろいろ述べていたが、最終的には群馬大学の片田教授が述べたように「他人に依存するな。行政に依存するな。」ということにつきる。あたりさわりのないことばかり述べる日本の防災学者が多い中で、群馬大学の片田教授は周囲の批判を恐れずに唯一まともなことを言い続けており、非常に尊敬すべき方だと思っているが、「他人に依存するな」という表現は適切ではない。恐らく、言いたいことは同じなのだが、正しい表現は「他人の判断に依存するな。行政の判断に依存するな。」ということだろう。災害時に避難所で食料支援を受けたり、救助を求めたりなど、行政の支援自体は当然必要であり、それが行政の仕事であって、それに依存するのは当然である。しかし、津波や豪雨で逃げるか逃げないか、どこに逃げるべきか、などという最終的な判断は行政に依存するべきではなく、自分で意思決定し、自分の判断で逃げろ、ということだと思う。

釜石の小学生の奇跡も、片田教授が「行政などの情報は信用せずに自分の頭で考えて逃げなさい」という教育が徹底されていたから、全員助かったわけである。行政の出す情報は100%正しいとは限らないし、行政から情報がなかったといって行政を非難ばかりしていても解決にはつながらない。行政が指定した避難場所がほんとうに安全とも限らない。

行政は、住民の意思決定を支援するために「情報」という資源を出しているにすぎず、そもそも意思決定者は住民本人なのだが、自ら行うべき意思決定を行政に丸投げしている人々が多すぎる。これでは、意思決定が遅れてしまい、助かるところも助からなくなってしまう。最終的な判断は自分で下し、いつ、どこへ、どのようになどということは自分で意思決定して動けるようにしろ、という片田教授の意見は普遍的に正しい。

 

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