災害時における責任の在り方について

最近、柳田邦男氏の書物を図書館から借りてきて片っ端から読みあさっている。理由はいくつかあるが、同氏が日本社会の根底にあるいくつかの構造的要因を明らかにしようとしていたためである。同氏もお年の関係で最近はあまり新しい本を出していないようだが、同氏の航空機事故等に対する分析の視点は非常に鋭く、今、再度読み返しても、参考になる分析は非常に多い。そんな中でも、同氏が指摘している日本社会の責任論的なものについて、筆者は非常に同感している。

日本では、事故があると、「ミスをしたのは誰だ」という責任論・刑罰論優先の発想が圧倒的に優勢である。しかし、「事前にどこかの段階で事故になるのを防げなかったのか」「事故原因にはどれだけの要素がからみあっていたのか」「現場のミスを誘発したいくつもの条件が背後にあったはずだ」といった視点から事故を分析すると、最後にジョーカーを引いた現場の運転員や保守・点検要員の過失責任を問うだけの捜査あるいは調査からでは見えてこない様々な事故要員を浮き彫りにすることができる。・・・・・・(柳田邦男『事故調査』新潮社、1994、233頁)

「ある種の事故は、操縦者が緊急事態を解決する際にその仕事に失敗したことによって生じうるが、もしその仕事が注意深い、平均の、よく訓練の行き届いた操縦者の通常の能力を越えるものであるとしたならば、かかる失敗は正しくは『操縦者の過失』と分類するわけにはいかない」(柳田邦男『航空事故』中公新書、1975、217頁)

他にも類似の指摘が多くの書物に書かれているが、要するに何かあると必ず誰かの責任にしたがる、という点である。4月に韓国でおきた旅客船セウォル号沈没事故では船長がこともあろうに「殺人罪」(注:刑法の「未必の故意」という理論による)で起訴されたが、あれなど典型的な責任の押し付け現象である。確かにあの船長の責任を問いたくなる気持ちは理解できるし、責任がないなどとは言えないが、あの船長は、事故の発生に至る非常に長い因果関係の連鎖のごく末端の一部分に関与したに過ぎず、彼が最後まで船に残っていたとしても、結果は恐らくそう大きくは変わらなかったろう(彼は「犯罪者」ではなく「英雄」になったかもしれないが)。事故の予防や準備体制等もっと深い原因が多数あるのであって、あの船長を処罰することによって、根本的な原因に目を向けることを止めてしまったら、また、同じ悲惨な事故が起きる。韓国海洋警察庁の解体議論も同じようなものだ。韓国海洋警察庁(海警庁)は事故が起きた後に捜索救助(Search and Rescue)活動を行う役所だが、事故直後に迅速に救助活動ができれば犠牲をもっと減らすことができたなどと批判され、それを理由に解体されるのであれば、責任の押し付け合い以外の何ものでもなく、海警庁の連中にしてみれば「こっちも必死に救助活動を行っていたのに人に責任を押し付けるな」と間違いなく思っているだろう。海警庁によるインシデント・マネジメントには多くの改善すべき要素があると筆者も思っているが、それと「解体」などという責任問題とは関係のない問題であり、切り離して考えるべき問題である。

セウォル号事故は韓国の話だが、柳田邦男氏らも指摘しているように同じような責任追及型の風潮は日本でも非常に強い。というよりも、韓国の法律や制度というのはかなりの部分が日本の法律や制度をモデルに作られているので、韓国が日本と同じようになっているという表現の方が正しいかもしれない。韓国の船員法や船舶職員法というのも日本のそれのコピペのようなものだし、「未必の故意」などというのがある韓国の刑法も日本の刑法をひょっとしたらモデルに作られているのかもしれない。

このような過度な責任追及型の社会は大災害などには非常に弱い。多くの人が何か失敗したときにあとで責任を追求されることを恐れて積極的に行動しなくなるためである。筆者がかつて役人をしていたとき、ある大きな事故に遭遇したことがあるが、その時筆者から「この仕事はうちの課で引受ましょう」と上司に提案したところ上司に「いかんいかん。そんな仕事はあっちの課へ振れ。」と拒否された。このように何か大きな事故でもあると、ある特定の部門に仕事が集中し、他の部門も忙しそうにはするが基本的に書類を右から左に転送するだけ、という状態になる。他方、過度な責任追及型社会は、現場への過度な干渉という形でも弊害が現れる。つまり、中央組織が災害現場に対して過剰なまでに報告を求め、現場に対して過干渉、つまり、マイクロマネジメントするという事態になる。これは「あとでマスコミなどから文句言われるのは俺達中央なんだから俺達の指示に従え。」という論理である。例えば、福島第一原発事故時に当時の首相官邸が現場での事故対応に異常なまでに細かい指示を出していたが、これなども「俺達が責任者だ」との過剰認識の下で行われたマイクロマネジメントの一例であろう。

緊急事態には、100%正しい手段などというのは基本的に存在しない。どんなことをやっても失敗する可能性はあるし、成功したとしてもそれはたまたま運良く成功したに過ぎず、全てが確率論の中での話である。そのような中で、個々の救助活動などの責任を追求されてはとてもまともな対応などできないだろう。基本的に緊急事態の場合には、現場を信頼し、任せるしかないのである。大災害ともなれば現場リソースに当然不足が生じる。そのような場合、中央組織などの組織の上位レイヤーは、必要な調整作業を実施して、現場のリソースの不足を補う必要があるが、これはあくまでも支援作業の一種であり現場への指揮命令作業ではないだろう。このような支援作業を怠った場合には、その怠った中央組織などの責任は当然追求されるべきであるが、マイクロマネジメントをしなかったことを理由に責任を追求されるというようなことは逆にあってはならないことである。

緊急時の責任というのは、悪質な故意や怠慢などという場合にのみ追求されるべきではなかろうか。過失や無過失の場合の結果責任にまで責任を追求されるということになると、萎縮を生んで積極的な行動を阻害するか、または、中央組織による現場への過干渉を生むことになり、かえって社会的損失を大きくする。ICSなどは、現場へ責任を全面的に移譲して、標準化された仕組みのなかで現場が自らの判断で動く仕組みだが、日本社会における責任追及の在り方という問題まで合わせて検討しなければ、仕組みだけはできたとしても、それがうまく回っていかない可能性がある。緊急時には現場に任せるが、過失や無過失による結果責任は不問とする、というような権限と責任を切り離した仕組みや社会的環境を醸成する必要がある(参考:ドイツ版ICSでは「協調的リーダーシップスタイルを実践すること、しかしながら、全体の責任についてはコマンドの任にある者が負うこと」(DV100 para.3.1)と規定されている。つまり、責任者は下のものに裁量を与えつつ責任はとりなさい、ということ。) 。

参考までに、この責任の問題と密接にリンクしている問題に、日本の役所の超短期人事異動の問題がある。どこの役所でも1〜2年間隔での超短期人事異動が行われているが、これでは災害のエキスパートが育成できない。役所の短期人事異動というものも何か問題が起きた時の責任の所在を曖昧にするための手段にすぎないが、これでは高度な専門性が必要なエキスパートなどは絶対に生まれてこない。最近は、国家的な災害エキスパートの研修訓練センターを作るべきだという意見も出ているが、このような短期異動が行われていては折角研修訓練を受けたスタッフがすぐに関係のない部署に異動していなくなってしまうことになる。柳田邦男も同じようなことを次のように指摘していた。

非常災害時の情報を活かすも殺すも、情報システムの中核にいる「人」である。つまりキーパーソンである。そうゆう情報担当者は人事異動で1〜2年で代わる人では駄目である。情報担当者は5年、10年と、その道一筋にさまざまな災害事例を学び、人脈を作り、断片的な初期情報から全貌を推定できるだけの勘と能力を身につけたプロフェッショナルでなければならない。私自身、かつてNHKの災害報道システムを作るときから、そのことを痛感していた。(柳田邦男『この国の失敗の本質』講談社、1998、122頁)

 

 

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