新幹線問題と緊急時の意思決定

「来島社長は運行停止に関する判断基準があいまいで、判断を指令員と保守担当が相互に依存する状況だったと述べ、危機管理上の問題を認めた。」

情報源: のぞみ床下点検打診、聞き逃す=「新幹線システムに弱点」-台車亀裂でJR西社長:時事ドットコム

運行停止の意思決定を現場で行うか、運転指令室で行うか、という問題である。一般的に日本の組織では、このような意思決定権限を現場に与えず、中央で行おうとする傾向が非常に強く、現場の権限が明確でない場合が非常に多い。現場は現場で権限がないので「指令室が判断するだろう。」と言い、指令室は指令室で状況がよくわからないので「現場が判断するだろう。」と言う。このような責任の押し付け合い的な現象は、決してJR特有の問題ではなく、幅広く、日本企業や日本の行政官庁でも見られる。

ではどちらで判断すべきか? 現場か? 中央か? 基本的にこのような緊急性を要する判断は現場である。遠く離れた指令室のようなところの意思決定に依存していては大災害につながりかねない。それを今回のインシデントは物語っている。

福島第一原発での事故を思い出してみよう。あのときは、本社や首相官邸が意思決定に関与し、あげくのはてには総理大臣が自ら現場に乗り込んできて「はやく水を入れろ!」と怒鳴る(私が原発所長だったら「総理、そんなことは言われなくてもわかってる。あんたは邪魔だ。出ていってくれ!」と怒鳴り返すだろう。)。今となっては証明はできないが、意思決定の遅延や混乱が被害を拡大させてしまった可能性は極めて高い。

現場で意思決定できるようにするためには、明確な判断基準と権限の明確な移譲が必要であり、これなくしては、責任問題となることを恐れ、誰も意思決定しないだろう。新幹線の状況をその目や音で聞いて止めるべきかどうかを判断できるのは現場である。このような安全に関する判断は、新幹線を止めることによって生じる経営上の損失に関わる判断に常に優先されなければならない。しかし、多くの場合、特に安全上何でもなかったような場合に、あとから責められることを恐れて、判断をしない。そうなると最悪の場合、大事故ということになる。

なお、当然ながら、現場に権限がきちんと移譲されていればルールに従っている限り、現場は責任を負わなくてもよいということになる。制度的な面が整備されていても本人の自立心や判断力が不足する場合には思うような意思決定が行われないこともあるが、まずは明確な判断基準と権限の移譲といった仕組み上の問題を解決して、その上で、研修や訓練を実施して各自の能力向上を図っていくことが必要なのではなかろうか。

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雪崩捜索救助の基本理念

捜索救助(Search and Rescue(SAR))は、相互主義が基本である。相互主義とは、「私が遭難した時には助けて下さいね。その代わりにあなたが遭難したときには私が助けに行きます。」という考え方であり、国際慣習法として古くから定着しており、船舶遭難時における相互主義などは国際条約や我が国の国内法にも明記されているものである。

「海上にある船舶の船長は、発信源のいかんを問わず海上における遭難者からの信号を受けた場合には、全速力で遭難者の救助に赴かなければならず・・・」(海上人命安全条約附属書第V章第10規則(a))

「船長は、他の船舶又は航空機の遭難を知つたときは、人命の救助に必要な手段を尽さなければならない。但し、自己の指揮する船舶に急迫した危険がある場合及び国土交通省令の定める場合は、この限りでない。」(船員法第14条)

船舶が遭難したときは、遭難信号を発信すれば各国の沿岸警備隊などが救助船を派遣してくれる。しかし、このような公的な救助船が遭難船のすぐ近くにいるということは稀であり、その到着を待っていては沈没してしまうということもあるだろう。そこで、遭難船のすぐ近くをたまたま航行していた船舶が救助に向かうのである。これが俗に「シーマンシップ」と言われる船乗りの精神である。ただし、強力な台風が来ている場合などのように救助に向かうことが自船を著しく危険にさらすという場合もあるだろう。そのような場合にまで無理に救助に向かう必要はない。あくまでも、自船の安全が確保できる範囲で他船の救助に向かう、これが船長に課せられた義務である。そして、沿岸警備隊などの公的な救助船が遭難現場に到着すれば、それまで救助にあたっていた付近航行船舶は、その後の救助作業を公船に一任し、救助の任を解かれて元の業務に復帰することができる。

雪崩事故などの山岳遭難の場合も、この基本理念は同じではないだろうか。海上のように条約や法律にこそ明記はされていないが、相互主義が人類の長い歴史の中で定着している国際慣習であることには変わりはない。

図1は、雪崩埋没時における生存率が時間経過とともにどのくらい下がるかを示したものである(出典:山岳医療情報)。図が示すとおり、雪崩に埋没してから18分でも生存確率は91%ある。しかし、その後、急速に低下する。従って、20分以内に埋没者を掘り出し救助することができるか否かによって、埋没者の生死が大きく左右されることになる。

図1:雪崩埋没時の生存曲線

ある登山パーティーが冬山登山中に雪崩が発生し、前方を登山していた別の登山パーティーが雪崩に巻き込まれるのを目撃したとしよう。この場合、目撃した登山パーティーは、携帯電話で110番通報して救助を要請するだろう。しかし、公的な救助隊が到着するまでには通常1時間以上かかる。それをじっと待っているだけでは救える命も救えない。そこで、目撃した登山パーティーは、自ら救助に向かうとともに、周囲に別のパーティーがいるならば、彼らにも協力を依頼して救助に行かなければならない。ただし、この場合も、二次雪崩の発生のリスクがある場合や十分な装備なしには救助できないような場合にまで救助に行かなればならないということではない。リスク評価を十分に実施し、安全を確保できると判断できる場合に限られるということは言うまでもないことである。

災害救助は、一般的に自助、共助、公助の3段階に分かれるが、一度雪崩に埋まってしまえば埋没者が自分自身で脱出すること、すなわち自助はほとんど不可能である。そこで、共助または公助による必要があるが、山岳遭難などの場合は、警察の救助隊などの公助が到着するまでに時間を要する。このような場合、最も重要になるのは共助、すなわち、遭難者の周辺にいて直ちに救助に向かうことができる人々による救助である。山岳遭難における共助の精神を何と呼ぶのかは知らないが、あらゆる捜索救助の精神は全く同じである。最も近くにいる人が救助する、これが最も早い救助につながり、助かる確率を最も高める。

不確実な日航機墜落の原因

1985年8月12日(月)18時56分、羽田から大阪に向かっていた日航123便(ボーイング747型)が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、4名の生存者を除き、乗客乗員520名が死亡した。単独の航空機事故としては、史上最悪の事故である。私は、当時大学の3年生だったが、事故のことを聞いたのは地球の歩き方を片手に生まれて初めての外国旅行をしていた最中だった。確かスイスあたりでバッタリあった日本人の方から事故のことを聞いて驚いたのを記憶している。当時は、今のようにインターネットもない時代で、衛星版の日本語新聞などは主要な都市では売られていたものの、高くて買えなかったので、詳細は帰国後に知った。

123便(この便名は今も永久欠番になっているらしい。)が操縦不能に陥った直接の要因は、垂直尾翼の大半が飛行中に失われてしまったことであり、この点については疑問の余地はないようだが、ではなぜ、飛行中に垂直尾翼の大半が吹き飛んでしまったのかということになると、未だに動かぬ証拠がなく、推測の域から出ることができない。

なぜ、垂直尾翼は吹き飛ばされたのか? これには2つの説がある。1つ目は、外側から飛んできた何かが垂直尾翼に当たったためだとする説。2つ目は、機内後部の圧力隔壁が破れたために、機内の高圧空気が垂直尾翼内部に入り込み、この内部からの圧力によって垂直尾翼が吹き飛んだとする説。航空機事故調査委員会の報告書は、後者の圧力隔壁破壊説に立っている。

しかし、圧力隔壁破壊説にも次のように様々な批判がある。

  1. 隔壁が破壊されたのなら、機内で急減圧が発生し、乗客の鼓膜が破れたり、機内の人や物が外に吸い出されたりするはずだが、生存者の証言によればそのような急減圧は機内に発生していなかった。酸素マスクをする必要もなかった。
  2. 報道などでは、バラバラになった圧力隔壁の映像が紹介されたが、墜落当初は圧力隔壁は完璧に丸いお椀状のまま発見されており、その写真も残っている。救助隊が救助の邪魔になるなどとの理由でエンジンカッターでこれをバラバラにしたため、バラバラになった隔壁の映像が公開され、さもこれが原因とばかりに一人歩きしてしまっただけである。
  3. 吹き飛ばされた垂直尾翼は海中に沈んでおり、未だに発見されていないため、その原因を直接的に評価できない。
  4. ボーイング社は圧力隔壁の修理ミスを認めてはいるものの、これは、747型機全体の問題ではなく事故機特有の問題として早く片付けたいという意図に基づいたものと推定され、その証拠に実際に誰がどのような過程でミスしたのか、具体的に明らかになっていない。

上記のように様々な批判があるため、運輸安全委員会は、平成23年7月、「日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説」を発行し、圧力隔壁破壊説を補強するための平易な言葉による説明を発表した。だが、これも結局は「推論」の平易な説明である。別に新たな証拠が発見されたというわけではない。

一方の外部から飛んできた何かが当たったとする説。これについては、2017年7月に出版された元日航客室乗務員の青山透子氏の「日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」が、幾つかの証拠を挙げて説明する。例えば、

  1. 123便に向けて飛んでくる物体と思われるものを機体後部の乗客が撮影した写真がある。
  2. 123便を追尾して移行していたファントム戦闘機2機が、1830〜1845にかけて、静岡、上野村など複数の地域の住民に目撃されている(これら2機のファントムは、公な記録ではこの時間には飛行していなかったことになっている。2機のファントムが飛行したのは記録上は、墜落事故の発生後である。)。
  3. 事故現場に早い時間に入った消防団等がガソリンとタールの混ざり合う匂いがしたと証言している。また、炭のように完全炭化した遺体が多数あった。しかし、航空機のジェット燃料は灯油に近い性質であり、遺体は炭化しない。ガソリンとタールを混ぜて作ったゲル状燃料を使用するのは軍用の武器以外にはない(何者かが証拠隠滅のために事故直後に現場に入り、この武器を使用したのではないか?)。
  4. 墜落位置が混乱し、なかなか特定されなかった。しかし、墜落直後から墜落地点上空を飛行しているヘリコプターが住民に目撃されている。

青山氏は、1996年に米国で発生したトランスワールド航空800便事故を例に挙げる。この事故の調査にあたった元NTSB職員や調査員6名は、2013年になって、「事故調査報告書はウソであり、ミサイルの誤射の可能性が高い。」と発表した。これは、「Flight 800」という映画にもなっているが、日本では公開されていない。青山氏は、これと同じことが日航123便にも起きていたのではないかと考えているのだろう。

いずれにせよ、全ての説が推論の域を出るものではない。上に掲げたような証拠も絶対的なものではなく、全て、反論可能(運輸安全委員会説明書参照)であるし、誤解や記憶の風化だと主張することも可能だろう。それぞれの立場によってバイアスがかかることもあるだろう。政府が自己保身や責任回避のためにウソをつくことは多々あるので「政府は何かを隠しているに違いない」と思うのも無理からぬところではある。

恐らく唯一この事故原因を証明する方法は、当時の747と同構造機を上空と同じ低圧室内に置き、機内に1気圧の与圧をかけ、後部の圧力隔壁を意図的に破壊して、後部尾翼内の圧力を高め、尾翼が実際に吹き飛ぶかどうかを実験してみることである。少なくとも今のコンピュータ技術ならシュミレーションくらいならできそうだが、誰も、このような実験やシュミレーションを実施した痕跡がない。このような実験やシュミレーションすら実施されていないことがまた政府への不信感を高めているのだろう。ただし、このような実験を実施するためには相当膨大なコストがかかる。

結論は、結局「わからない」というのが最も誠実な答えであるように思う。ミサイルを誤射した本人でも名乗り出てくれば話は急展開するが、もう30年以上前の話であり、その見込もない。この事故は、とにかく、わからない

このような事故があるとその遺族は必ず「事故の原因を究明し、再発防止に務めるのが最も犠牲者の供養になる。」と言う。しかし、事故の再発防止が目的なのであれば、必ずしも100%これが原因だった、と言う必要はないのではなかろうか。123便事故であれば、圧力隔壁が破れたのかもしれないし、外から飛んできた何かが当たったのかもしれない。であれば、その両方に対して、更なる予防策を講じればよい。123便の事故後、ボーイング社は、当然、圧力隔壁の破断防止のために更なる改善をしているし、考えられ得る他の要因を含めて、徹底した改善策を講じている。また、当然、自衛隊なども万が一にも自衛隊航空機や誤射したミサイルが民間機に当たるなどということがないように対策を講じているだろう。再発防止が目的であれば、必ずしも、2つの可能性のうちのどちらだったのかまで絞り込む必要はないと思う。遺族感情としては、原因を一つに絞り込んでほしいのだろうとは思うが、複数の可能性の全てに対応策が講じられていれば、それでよいのではないだろうか。

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ネット中立性原則

The U.S. Federal Communications Commission swept aside rules barring broadband providers from favoring the internet traffic of websites willing to pay for speedier service, sending the future of net neutrality on to a likely court challenge.

情報源: FCC Votes to End Net Neutrality Rules – Bloomberg

上記のとおり、米連邦通信委員会(FCC)が、14日、賛成3、反対2でオバマ前政権が導入したネット中立性原則を撤廃した。これは、全世界に影響のあるインパクトの大きな政策の変更である。下記のBBCニュース解説がわかりやすい。

情報源: ネット中立性って必要? 米FCC採決が持つ意味 – BBCニュース

今後、ストリーミング放送などを実施するために高速の帯域を確保するためには、コンテンツプロバイダーはISPに余計にお金を払わなければならないことになり、資金にゆとりのある者は高速で動画を提供できるが、お金のない者のコンテンツのトラッフィクの速度が低速化し、世界中から不満が続出するという事態になる可能性がある。上記のBBCニュースでは例としてフェイスブックが急成長できたのもネット中立原則があったからだ、としているが確かに資金にゆとりのないベンチャーにとってはあまり望ましい政策の変更ではないかもしれない。

下記は日経新聞からの引用。

トランプ氏は白人の中間労働者層の支持を得て大統領に当選した。「勝ち組」の象徴であるネット企業をたたけば世論の支持を得られると考えているフシもある。今後もシリコンバレーへの厳しい態度は続きそうだ。

情報源: トランプ氏、シリコンバレー標的 政策で対立  :日本経済新聞

困った大統領である。

著作権に対する危機管理

数年前、小保方事件があった。この事件では、論文不正、言い換えれば、無断で他人の著作物をコピーし、自分の著作物であるかのごとく振る舞うことが問題になったのだが、デジタル化され、容易にコピペ(Copy & Paste)できる著作物が大量にネット上に流通している現代では、小保方氏に限らず、同様の著作権侵害を行う者は非常に多いと思う。

著作権法に基づくと、他人の著作物でも、その出所を明記し、原文を改変せずに使えば、引用や転載の禁止が明記されている場合を除き、特段、著作者の承諾を得ることなしに「引用」することができる(著作権法第32条)のだが、どうも、そうゆうことを知らない人が多いようである。国際法上も、ベルヌ条約と万国著作権条約があるが、万国著作権条約が方式主義(注:Copyrightの「©」マークとともに発行年、著作権者名が記されていなければ法的に保護されないとする主義。)をとっているのに対し、ベルヌ条約は無方式主義(注:特段の登録や表示などがない場合でも法的に保護されるとする主義。)を採用しており、我が国は両条約を締結しているので、ベルヌ条約の無方式主義に従って、我が国著作権法は書かれている。従って、我が国の著作権法に従っていれば相手が外国の場合でもベルヌ条約の締約国であれば法的に保護される。引用以外にも著作物が自由に使える場合があるが、それらは、文化庁のウェブサイトに分かりやすく記載されている。なお、著作物として認められるのは必ずしも形式的に完成した物だけではなく、作成途中のものであっても創造性があれば当然認められると理解されている(いつの判例か詳細不明だが、いくつかの判例があるようである。)。

私のブログもかなりあちこちで無断盗用されている。一言「このブログを参考にした」とでも参考文献欄にでも書いてあれば名誉なことであり、問題ではないのだが、出所も明記せずに公の文書へコピペしている方もいる。過去には私のブログの内容をそのまま某官庁への提案文書に書き込んでいる経済団体があった。逆に当方に転載の承諾を求めてきた人に対し、「著作権法に従って適切に出所の明示等を行っていただければそれで結構です。」と言ったならば、私に断られたとでも勘違いしたのかそれ以降何の連絡もしてこない人もいた。この人は、出所や参考文献としての明示などをせずにコピペしたかったのかもしれないが、そのような不正を認めるわけにはいかないのは当然である。

著作権法について正しく理解していない人は想像以上に多く、学者や学識経験者も例外ではない。人が書いたものを自分が書いたものかの如く振る舞うということは窃盗と同じであるとは思わないのだろうか?

UBERによる資源配分

供給可能な資源を有効に使って、需要のあるところへ分配する、言い換えれば需要と供給をうまくマッチさせること、これは古くて新しい問題であり、昔から経済学では市場に任せて自然に最適な配分がなされるのを信用するのか、特定の優秀な人に任せて人為的な配分に依存するのか、という2元対立の中でその両極端の間を行ったり来たりしながら、分配は行われてきたようにと思う。言い換えれば、アダム・スミスの「神の見えざる手」はどこまで信用できるのか、という問題である。

インターネットは、もともと、このマッチング分野で非常に有効で、ネットオークション、求人、不動産、物々交換、情報交換に至るまで、結局のところ、何かと何かのマッチングサイトであるサービスは非常に多い。言い換えれば、インターネットは「神の見えざる手」を支援するためのツールだと言っても過言ではない。経済学は、市場が完全であるための条件のひとつとして、「情報の完全性」を挙げる。情報の非対称性、言い換えれば情報格差があると市場は失敗するが、インターネットにより、この情報の非対称性を改善できる。

そんな中、空いてる人や物を有効にそれを必要とする人に提供しましょうという、いわゆる「シェアリング」ビジネスが最近注目を浴びているが、そんなシェアリングビジネスの筆頭とも言えるのがUBERだろう。他にも空いている部屋を他人に貸すことを仲介するエアビーアンドビーなども有名だが、私は外国に仕事で行くときには必ずUBERを使用する(注:残念なことに日本では規制のハードルが高いためか、なかなか普及しない。)。

もともとのUBERは、一般の乗用車をタクシー代わりに使用するライドシェアである。道端のどこにいてもスマホのUBERアプリで車を呼ぶと、その正確な位置が付近を走っているドライバーのスマホの地図上に表示されて、ドライバーが迎えに来てくれる。待っている方も今ドライバーがどこを走っているのか地図上に表示される。迎えに来てくれるのは普通の乗用車の普通の人である。決済は全てアプリに登録されたクレジットカードで行われ、現金の授受はなく、金額は予め見積もりが表示されるし、走っているルートも地図上に表示されるので、遠回りして余計な金額がかかったり、ボラレたりする心配もない。ドライバーも、ユーザーも相互に5段階評価されるので、評価の低いドライバーにはお客がつかないし、評価の低い客にはドライバーが迎えに来てくれない。よく考えられている面白いシステムである。問題は、これが普及してしまうと既存のタクシー業界には非常に大きな脅威となることであろう。しかし、他国を見ているとスマホを使いこなせない人などは依然として普通のタクシーを使っているので、直ちに脅威となることはないとは思う。

そのUBERの新サービスに「UBER EATS」がある。これは、レストランに食べ物をユーザーが注文を出すと、登録された配達員が自転車でレストランに取りに行き、彼らが自転車でユーザーまで届けてくれるというものだ。よくあるピザの宅配などのようにその店が雇った専属の配達員が配達してくれるのではなく、UBERに登録した学生などの暇を持て余している人が自転車で配達してくれるのである。従ってレストランは独自の配達員などを雇うことなく、簡単に宅配サービスを提供できる。なお、配達料は追加でかかり、外国では5〜6ドルかかっていたが、東京の一部で開始されている日本のサービスでは380円らしい。これもライドシェアと同様に配達員が今どこを走っているのか地図上に表示されるし、配達員などの評価システムもある。

最近、ふとUBERって欧米の戦術情報システムとも言えるCommon Operational Picture(COP)そのものではないかなと思った。UBER EATS的なシステムがあると災害時の資源配分にも多分役立つ。よく避難所に適切な支援物資が届かないことが指摘されるが、支援物資を必要としている人、支援物資を提供する人、支援物資を配達する人を別々に登録し、それぞれを最適にマッチングできれば、支援物資があるところには集中し、ないところには全然届かないなどという「政府の失敗」は少しでも改善されるだろう。

なお、COPを組織の上層部の人の意思決定を支援するものと勘違いしている人が多いが、COPの目的は全く逆で、組織の末端の人々が自立的に意思決定することを支援するための情報システムである。一昔前のタクシーの配車をイメージしてみよう。お客がタクシー会社に電話し、タクシー会社が最も近くを走っている車にタクシー無線を使って送迎に行くよう指示し、指示された車が迎車する、という仕組みだった。これは情報をタクシーの配車センターに集約し、適切な車を配車する、すなわち中央集権的に資源配分である。対して、UBERは、このような中央集権的な資源配分システム無しに、必要としている人、迎車可能な車などを情報システムを使って自立的にマッチングする。提供可能な資源は誰からも指示されることなく、自立的な意思決定によって配分されるのである。

但し、携帯電話の電波が届いていること、電源がとれること、使う人々のITリテラシーが高いことなど幾つかの条件が満たされることが必要にはなるので、電気もなにもいらないアナログ式の配分システム(ICS的な標準化はその一つの方法)も必要にはなるとは思う。ICSを中央集権的な意思決定の支援システムと勘違いしている人も多いが、実はICSも、可能な限り低いレイヤー、すなわち、現場レベルでの意思決定とその資源配分をアナログ式に達成するために標準化した仕組みである。マネジメントシステムの標準化の目的も実はココにある。

那須雪崩事故→安全基準の不在が問題

今年3月の那須雪崩事故の検証委員会報告書(→栃木県HP)を読んでいて感じるのだが、「安全基準が存在しない」という視点が全く抜け落ちている。報告書の冒頭で「責任の追求は目的としない」と書きながら、全体としてはやはり主催者、高体連、講習会役員、講師、引率教員、学校運営責任者、県教育委員会などの責任を具体的に示しながらがそれぞれ悪い、という論調。要するに学校関係者みんなの責任ということにしたいのだろう。検証委員会は裁判所ではないのだから責任の追求などできないのは当然なのだが、誰かの責任にしないと収まらないという世論の風潮に配慮しすぎているように見える。現場任せで無計画とか、マンネリズムといった抽象的な精神論に原因を求め過ぎている。

一般的に責任追及と再発防止とは両立しない。過度に責任を追求しようとすると人々は責任追及を逃れようとウソの証言をするだろう。ウソの証言ばかりになれば事故の根本要因が見えてこないため再発防止が困難になる。この事故も、学校関係者全員の責任追求に終始すれば、事故の再発防止にはつながらない。

ところで、裁判所が刑事や民事で誰かの責任を追求する場合でも、そのためには当然事前に定められた守るべき基準というものが必ず存在する。それは、明文化された法律や政省令ということもあるし、あるいは、判例という過去の事例を基準にしている場合もある。事前に社会的に合意された安全基準無しに「お前が悪い」と言ってしまうのは公平性に欠く。あえて責任を追求するのであれば、冬山登りという危険な行為に対する安全基準を設定してこなかった社会全体の責任である。地方自治体やナントカ省の責任にしたがる世論もあるが、それも公平ではなく、必要な安全基準の設定を提起してこなかった世論全体の責任である。なお、そのような世論に従い社会的要請が生じた場合には当然、ナントカ省や自治体(正確には国会や地方議会というべきかもしれない。)は法令や条例を定めるのが仕事であるし、行政府はそれを実施することによって安全確保に務めなければならないのは当然の責務である。

筆者は海や空の安全確保という観点から長い間仕事をしているが、海や空の世界には過剰とも言えるほどの安全基準が国際条約や国内法という形で存在する。船長やパイロットになるためには安全確保に関する必要な知識を身につけ、試験に合格して、資格をとらなければならない。衝突予防装置の搭載義務や構造上の安全基準なども多数存在する。また、遭難という最悪の事態となった場合でも迅速に捜索救助(SAR)当局に通報できるよう緊急時の発信機(ビーコン)や標準化された通信機器の搭載も義務付けられているし、通信方法なども全て国際的に標準化されている。船員やパイロットには条約で定められた各種の注意義務がある。それを守らなかったら当然彼らは非難され責任を追求される。しかし、そのような注意義務を払っていたとしても事故は起きる。その場合でも被害を最小限に収めるよう海や空の世界では何重にも対策がとられている。

他方、冬山、夏山を問わず、登山の安全基準という観点で見た場合、そのような注意義務が具体的に明文化されているか? Noである。登山時に装備すべき装備品の搭載義務が明示されているか? Noである。確かに登山はレジャーであって、乗客等の運搬を業務とする船舶や航空機と同様に規制するのは困難であろう。しかし、政府がガイドラインという形態で示すことや山岳関連団体の自主規制ということで示すことはできるであろうし、危険度が高い特定の山に入る場合には必ずコレコレの装備を持っていきなさい、持たない人は入れません、などというように条例で規制してしまうことだって知恵と工夫を凝らせば可能である。安全確保については、自主性に期待するのはなかなか困難であり、今も昔も法令による規制という手段が必要である。

事前に定められた注意義務などの安全基準なしに、事故後に現れた登山の専門家と称する人たちが自分自身の基準をもとに「これをしなかったから悪い。」「これを持っていかなかったから悪い。」などのように事後的に非難するのは簡単であるであるが、公平ではない。客観的基準に基づかないものは個人的バイアスがかかっており公平性に欠ける。

那須の事故を無駄にしないためには登山に対する具体的かつ効果的な安全基準の制定が必要である。マスコミも誰かの責任追及ばかりするのではなく、このような問題提起をし、世論を喚起するのが仕事。我が国は法治国家である。この点をよく再認識もらいたいものである。