雪崩捜索救助 (Avalanche Search & Rescue (AvSAR)) 

安全な登山を学ぶ場でなぜ--。栃木県那須町のスキー場で27日朝、登山講習中の県内高校生らの団体が雪崩に巻き込まれた。高校生7人と教員1人が死亡し、重傷者を含む40人が負傷する惨事に。深い雪に阻まれ、消防や警察、自衛隊による救助作業は難航。「我が子は」。保護者らは悲痛な表情で無事を祈った。【岸慶太、杉直樹、乾達】

情報源: 栃木・那須の雪崩:8人死亡 雪、一瞬で胸まで 生還生徒ぼうぜん 「無事で」祈り届かず – 毎日新聞

 

昨日、那須で発生した雪崩による高校生8人の死亡事故。雪崩事故自体は、あまり報道されていないだけで、結構、月に数度は発生し、犠牲者も毎回数人出ている。しかし、今回は、高校生が8人も犠牲になったということで、大きな社会問題になっている。警察は業務上過失致死で引率の先生方を立件する方針で捜査をしているようだが、このような事故が発生した時に誰か1人に責任を押し付けても、あまり問題の解決や改善にはつながらない。恐らく、先生方にしてみれば、事故の経験と周囲の地形、その時得られていた情報などを根拠に、この場所で歩行訓練するくらいなら大丈夫だろうと判断したのだろう。判断に甘さはあったのだろうが、それらはいずれにせよ後付けの講釈である。

冬山に入る以上、どんなに注意しても、雪崩のリスクは存在する。様々な情報をもとに極力そのリスクを回避すべきことは当然だが、最悪の場合、つまり、雪崩に巻き込まれた場合でも迅速に救助できるように準備できていたかどうかという点を見直す方が、「なんで警報が出ていたのに歩行訓練を実施したんだ!」といって責任追及するよりもより生産的で将来の犠牲者の削減につながる。

まず、生徒全員が雪崩ビーコンを所持していたのかどうか。テレビでの地元消防の記者会見や生存者の高校生のコメントなどを聞く限り、いずれも目視で、埋まっている高校生の体の一部が表層に見えている部分を頼りに掘り出し救助を行っているので、恐らく、ビーコンなどは所持させていなかったのだろう。彼らが全員ビーコンを所持し、事故発生後直ちに難を逃れた生徒と先生方で電波捜索を実施し、迅速に埋没地点が特定できていれば、もう少し、犠牲者の数は少なかったのではなかろうか。全員ビーコンを所持していなかったとの報道(⇒全員「ビーコン」不携帯)もあり、そうなると、なぜ、ビーコンを所持させなかったのかという点が問題になりうる。しかし、現状では、冬山に入るにあたり、ビーコンの所持を義務付けた法律も条例も存在しないので、ビーコンを所持していなかったからといって責任を問われるわけではない。冬山に入るにあたり、ビーコンの所持を義務付けるための制度構築なども検討する価値はあるはずである。例えば、指導者的立場にある人に指導される側の人々に対して、ビーコンを所持させる指導義務を科し、怠った場合にはなんらかの罰則を適用するということもできる。車の助手席や後部座席のシートベルト着用義務などは、着用する本人へ義務を科しているのではなく、ドライバーに助手席や後部座席に座る人にシートベルトを着用させる義務が負わされている。同じような発想が適用できないか。

消防の記者会見を聞くと、地元消防は雪崩が発生してから3時間後くらいに、体の一部が表面に出ていた3人を発見し、その周囲を掘り出した所、埋没していた5人を発見したと述べていた。しかし、3時間も経ってからの救助では生存確率が極めて低く、遅過ぎである。雪崩事故の場合、埋没してから30分間で急速に生存確率が下がり、30分以上経過した場合の生存確率は、雪の条件などにもよるが場合によっては10%以下まで落ちる(参考:カナダやスイスの雪崩生存曲線)。

雪崩に巻き込まれた仲間がいた場合、更なる雪崩に注意することは当然必要だが、そのリスクが低いと判断できた場合には、救助隊を呼ぶのと同時に、無事だった仲間によって、直ちに目視や電波捜索によって、埋没地点を特定し、迅速に掘り出し救助を実施するということが不可欠である。その捜索救助についても、誰か(昨日の事故だったら引率の先生だろう)が現場指揮官となり、トリアージを念頭に置きながら最大多数を救助するための捜索救助プランを即座に立案して、無事だった仲間の協力を得てそれを実施するという措置が必要である。

地元の消防や警察などを救助隊は、当然、呼ぶべきだが、現状では彼らの到着は事故発生から1時間も2時間もたってからになる。しかし、これでは遅い。彼らにできることは遺体の捜索ということになってしまう。

従って、今回の事故から学び、改善すべきことは次の2つである。

1.仲間による救助率を向上させるための措置: 登山者全員が雪崩ビーコンを持つと同時に、その使用方法や捜索救助方法について、必要な研修をできる限り多くの人が受け、相互主義で救助できるようにすること。ビーコン所持の義務付け及び捜索救助研修受講の義務付けなど。なお、そのための研修は、日本雪崩ネットワーク(JAN)などがすでに実施している。

2.外部の救助隊(警察、消防、スキーパトロール、その他)による救助の迅速化: 現状での彼ら仕事は、ほとんどの場合、遺体の捜索になっている。しかし、もっと連絡があってから現場到着までの時間を短縮し、かつ、迅速に利用可能な人員資機材などの資源を組織化するための仕組みがあれば、救助できる場面もあるはずである。山岳救助は、主として警察の仕事になってはいるが、別に警察に全てを押し付ける必要はない。その他にも救助の際に支援してくれる民間団体や半公的な団体も多い。課題は、これらの資源を迅速にどうやって組織化し、現場に投入するかである。そのための手法は唯一つ。「雪崩インシデントに対するマネジメントシステムの標準化」である。米国やカナダなど、雪崩に限らず、全てのインシデントに対するマネジメントシステムがICSなどで標準化されている国では、雪崩インシデントについてもICSを適用し、そのマネジメントシステムが標準化され、現場での組織化が図られている。日本の場合、この全国レベルでのインシデントマネジメントの標準化が全く進んでいないが、雪崩インシデントも、非常に多くの組織が関係し、その組織化が必要なインシデントである。マネジメントが標準化されれば、その組織化コストが下がり、意思決定や資源配分が迅速化する。

なお、雪崩インシデントに対するマネジメントの標準化は、外部の救助隊の組織化といる側面だけではなく、仲間による救助と外部から駆けつけてくる救助隊による救助活動とをシームレスにつなぐためにも必要となる。まずは、雪崩インシデントに対する対応ということから、その標準化を検討し、他のインシデントにも広げていけばよい。

 

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村社会の功罪

日本は村社会である。欧米が狩猟型文化であるのに対し、日本は農耕型文化に根差し、その結果、村社会といわれる文化が発達してきた。現代社会において村社会は、地方の田舎にのみ残るもので、都会に出ればそんなことはない、という意見もあるが、都会のマンション暮しにこそ村社会はないかもしれないが、大企業に勤めれば多くの企業内文化は村社会に根差しているし、官公庁などは組織そのものが村である。政界・学会なども「村」以外の何物でもないだろう。

では「村社会」とは何だろうか。当然ながら、それを定義した法律などは存在しない。しかし、ネットをググると幾つかの定義らしきものがヒットする。例えば、コトバンクには、

有力者を中心に、上下関係の厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な村落。村の決まりに背くと「村八分」などの制裁がある。
同類が集まり、ピラミッド型の序列の中で、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会を1にたとえた語。談合組織・学界・政界・企業などに用いる。(デジタル大辞泉)

閉鎖的で因習にとらわれた社会を村にたとえて言った語。 「派閥という-から抜け出せない」 (大辞林)

Wikipediaには、次のような特徴が列挙されている。

  • 水利権、入会権、漁業権などの産業上の権益の範囲と一致した広がりを持つ。
  • 長による支配、ボスと子分の上下関係が厳然と存在する。
  • 所属する「村」の掟や価値観・しきたりが絶対であり、少数派や多様性の存在自体を認めない。
  • “掟”に関与しない世間一般のルールやマナーにはルーズ。他者がルールを守る姿にも息苦しさを感じるため、他者にもルーズさを強要。「マナーを守らないのがマナー」と化している。
  • 出る杭は打たれる。長い物には巻かれ、流れには棹を差すべし。寄らば大樹の陰。義理と人情。横並び。
  • 排他主義に基く仲間意識が存在する。
  • 自分逹が理解できない『他所者』の存在を許さない。
  • 同郷者に対しては「自分達と同じで当たり前」という意識を抱いており、自我の存在を認めない。
  • 傍目には異端者に寛容だが、相手を理解しているのではなく理解できるものに「改造」しようとしていたり、特例で見逃されているだけであったりする。
  • 白か黒か、善か悪かといった二極論を好む。これが「異端者は自分たちを見下している/敵意を抱いている/自分より劣る存在である」といった思い込みを生みやすい。
  • 弱いと規定したものに対しては、陰湿且つ徹底的に圧迫を加える。
  • 構成員は陰口を好む。
  • 有形物のみならず時間や空間に対する共有意識も強く、プライベートやプライバシーといった概念が無い。
  • 事なかれ主義が多い。
  • 噂話に対しては、真実かどうかを追求するより、噂を既成事実にしようとする。
  • インテリが少数であることと年長者の影響力により、架空の法律のでっち上げ、「神頼み」といった非常識がまかり通る。

村社会は、仲間意識が強く、協調性が強いため、農業や工場労働など共同で肉体労働を行う場合には適している。 かつて、日本の製造業の品質が良く、世界に品質面でナンバー1の評価を得られてきたのも村社会のメリットである。助け合いの精神が強いため、震災復興のような状況でも大きな力を発揮する。

反面、多くのデメリットもある。第二次大戦前のように国全体が戦争一色となると、皆、周囲の目を恐れて異論を唱えることができなくなり、後戻りが非常に困難になる。自分の意見を持たず、持っていても言わず、大衆迎合主義になりやすい。選挙の時に「組織票」などというおかしな票田があるのも先進国では日本ぐらいだが、これも村社会のなせるわざだろう。財政赤字がどんどん膨れ上がっているにもかかわらず、必要性の低い公共事業をこれまで通りどんどんやり、後戻りできなくなっているのも、村社会の意思決定ゆえである。

危機管理上もこの村社会文化がプラスにもマイナスにもなっている。震災復興局面などではプラス面が強く働くが、他方、インシデントに対する準備と対応の局面ではマイナスに働く。

まず、準備面だが、村社会は、「誰かが助けてくれるだろう」みたいな他力本願的な考え方を基本とする甘えを許しあう寄合的な組織文化であるため、「自分の身は自分で守る」という欧米型の自律を基礎においた組織文化と異なり、リスクを直視しない傾向が非常に強くなる。すなわち、欧米のようにリスクを合理的に算定し、便益に見合ったリスクを引き受けるという習慣に乏しい。上記のWikipediaにもあるとおり、白か黒か、善か悪かといった二極論を好む傾向が強いため、安全面でも100%安全か、そうではないか、という視点で物を見る。原発の安全神話がその例だが、この世に100%安全なものなど存在しないのだが、電力会社に100%安全だ、と言わせないと気が済まない。その結果、準備を怠り、福島で見られたような結果に至っているわけである。これは、ある意味、「責任の押し付け合い文化」とも言える。自分で一切責任を取りたくないので、電力会社に100%安全だと言わせ、何かあったときには全部お前が悪い、ということにしてしまいたかったのだろう。

鹿児島県の三反園訓知事が8月26日、九州電力に川内原子力発電所(同県)の一時停止と再点検・再検証を求めたたが、瓜生道明社長は「技術的に大丈夫」と安全性を強調し、一時停止要請を断った。これなども典型的な村社会現象だろう。当然、100%の安全などは存在しないが、原子力安全委員会が定めた基準と審査はクリアして運転されているわけである。「熊本で地震があったので心配だから止めてくれ」などという論理が通ってしまうとキリがなくなる。前知事の伊藤氏はそんな必要はないという立場だったが、7月の知事選によって知事が替わった結果である。よく言うと民主主義、悪く言えばポピュリズムである。「もうすぐ、定期検査がありますので、その時に十分な検査を行ってもらいます。しかし、県としても、避難計画の再確認などを至急行う予定です。」などと説明すれば不安を抑えることはできたのではないかとも思う。従って、ある意味、前知事によるリスクコミュニケーションの失敗が原因とも言えるが、村社会でのリスクコミュニケーションは難しい。

更に、毎年9月1日に行われる防災訓練だが、これなども見せることが目的の訓練であり、問題点を抽出するための訓練とは到底思えない。防災訓練と名の付くものは9月1日に行われるもの以外でも同様であり、儀式的な意味合いがつよく、実際の役に立つ訓練ではない。建て前という日本人独特のものの考え方、つまり、現実がどうであれ、うわべだけはていねいにつくろうことを重んじる村社会特有の文化に起因する訓練ということができる。

災害への対応の局面では、セクショナリズムが表に出てきやすい。災害の救助・救援にあたる行政組織は、非常に多階層のピラミッド型組織、すなわち、伝統的な官僚制組織である。ウェーバーによって提唱されたこの官僚制は、正確性や安定性、信頼性などの面で優れている反面、訓練された無能力(以前の状況下で適切な行動パターンだったものが、状況変化の後にも持ち越されてしまい、そのまま継続的に繰返されてしまうこと)、セクショナリズム、目標の転移(規則を守ることが手段であったにも関わらず、それ自体が自己目的化してしまうこと)等の問題を引き起こす。

また、この多階層組織は、情報の伝達や意思決定に非常に時間がかかる。例えば、係員→主任→係長→課長補佐→課長→部長→次長→大臣(知事、社長など)(トップダウンの時はこの逆方向)とまともなルートで情報伝達していたら、伝達に大変な時間がかかると同時に、伝言ゲームのように情報が変形する。大規模な災害が発生したような場合に、このような情報伝達を行なっていれば、意思決定や命令伝達に大変な時間がかかると同時に情報が正確に伝達されない。誤って伝達された情報に基づき意思決定が行われれば、その結果は悲惨である。

時間にゆとりのある平時においては、なんとかなるかもしれない。しかし、時間のない危機的状況が発生した場合には、問題である。つまり、これが、先に述べた「訓練された無能力」を生み、いざ、大規模な災害が発生し、迅速な意思決定が必要な場合でも、責任を負わされたくないので、誰も意思決定しようとしない。

欧米の組織ではフラット化が進行しているのに対し、日本では、依然として、非常に縦長なピラミッド型官僚組織が多くみられ、かつ、このように意思決定に時間がかかり、かつ、意思決定がゆがむ可能性が高いにも関わらず、緊急時にも通常時と同じように通常組織のトップまで上げて細かい意思決定を行う傾向が強いのも、その根底にある村社会が原因だろう。しかし、問題を解決するための方法はないのか。

  • 意思決定及び救援・救助活動を迅速化するためには、災害等の発生状況の全体が見渡せ、どんな援助が必要であり、何をどこへ配備するのが最も効果的であるか瞬時に判断できる現場に意思決定権限を委譲することである。意思決定が迅速化すれば、救援・救助活動も自動的に迅速化する。現場の指揮官以外は、あくまでも現場指揮官からの要請に応じた側面支援とすれば混乱も減る。
  • 情報伝達を正確化するためには、通信用語を標準化すればよい。共通の単語を使えば誤解も減る。異なる組織でも通信連絡がとれるよう共通の通信手段を用意することも必要だろう。
  • セクショナリズムを排除するためには、現場に全ての機関の責任者が集まり、現場で情報を統合・共有し、意思決定を共同で行えばよい。全体の状況が共有されればセクショナリズムは減る。膨大な量の情報を共有し、調整された意思決定を行うためには、責任者が一堂に会し、同じ資料を見ながら、Face-to-Faceで議論し意思決定するのが最も理想的である。無線や電話による電話会議機能で代替できる場合もあるかもしれないが、Face-to-Faceの会議には劣るので、これらは基本的に、指示や報告、支援要請の伝達のみとすべきである。
  • 準備体制を改善するためには、準備体制を評価するための標準化された評価指標を作り、各地域ごとに評価し、問題点を抽出すると同時に、各地域間に一種の競争意識を芽生えさせ、互いに刺激し合わせるという策がある。

上記の改善策を全て含んだシステムは、米国で採用されているICS(Incident Command System)などのように災害対応時の組織編成法などを標準化することと準備評価システムを組み合わせることによって実現可能なのだが、これらの改革を実施する段階でも、村社会の文化が障害となり、なかなか前に進まない。

 

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東京オリンピックの警備と防災

リオデジャネイロオリンピックが終わった。過去最高のメダル数だったし、非常に多くの感動があった。最後の閉会式で土管の下から湧き出てきた安倍総理大臣だけは余計だったが、ドラえもんを使ったアニメーションも非常によかったように思う。

リオでは選手村の水回りの不良が相次ぎ、卓球の福原愛の部屋のトイレが故障し、言ってもなかなか修理に来ないので自分で直してしまった、というエピソードは有名だが、東京でやる限り、このような間の抜けた品質不良のサービスが提供される可能性はまずない。町中で選手が泥棒に遭ったり、殴られたりという事件がリオでは多発したようだが、これも日本では発生しないだろう。日本は、未だに犯罪に対する安全性や物やサービスにおける品質の面では、世界一だろうと思う。

ただし、東京オリンピック中に大規模災害やテロなどの大規模インシデントが発生した場合に、関係機関が横のつながりを密にして、効率的なマネジメントを実施できるか、という視点で見ると、非常に心もとない。この点では制度的に見て、先進国中、最低最悪の期待値とならざる得ない。

東京オリンピックともなれば、警視庁が全国の警察から応援を受けて、間違いなく、厳重な警備を大規模に実施するだろう。しかし、リオでもそうだったが、東京でも、恐らく、非常に多くのボランティアが様々な面で参加するはずである。自衛隊や消防などもそれぞれの分野で警備や防災などに従事するだろう。更にセコムやALSOK等の全国の警備会社約9000社も東京オリンピックの警備で協力するという。このように、関係者や関係機関が多くなると、ひとたび、大事件や大災害が発生した場合、その意思決定が遅延・混乱し、現場が大混乱する、というのが日本の歴史上の事実である。東日本大震災や熊本地震の場合、被害者は基本的に日本人だけだったが、東京オリンピックの最中にこんなことが起きれば、被害者は全世界のアスリートや観光客になり、そのステークホルダーは全世界に及ぶ。国内関係機関のみならず、全世界のステークホルダーを融合的にマネジメントして、インシデントに対応する能力は、今のところ、日本にはない。

唯一、これを可能にする方法は、全関係機関が標準化されたインシデント・マネジメントを採用し、発生したインシデントに対して、柔軟にその組織規模や構成機関を変更して、対応にあたることである。インシデント・マネジメントを標準化するということは、それほど難しいことではない。緊急時に編成する組織の機能や用語、組織の編成方法、意思決定のプロセスや実施計画書のテンプレートなどを事前に決めて統一マニュアルを策定し、関係機関がそれを熟知しておけばよいのである。このような標準化によって組織化コストが削減され、調整及び意思決定が改善され、資源の最適配分も達成されやすくなる。

米国のインシデント・コマンド・システム(ICS)も、オリンピック警備などですでに採用されており、有効に活用されている。ICSは、災害などのインシデントが発生した後に編成される現場組織に適用されるものと思われがちだが、それに限定されることはない。警備体制というのは、何かの犯罪インシデントの発生に備えての事前体制のことだが、ひとたび、実際にテロなどのインシデントが発生した場合には、資源を追加投入し、対応組織を拡大していかなければならない。このような拡大をシステマチックに行うための仕組みとして、そもそもICSのような標準化されたシステムは存在しているのであり、何も発生していない時点では、会場を巡回している警備員とその指揮官が小規模な組織の中で運用されるだけのことである。

最近、アメリカのICSの真似事をする民間団体も多少あるし、政府でも、統一用語、統一マニュアルを作ろうとしている痕跡は多少ある。ただし、まだまだ、標準化のメリットをよく理解している人は皆無に近く、先は遠い。東京オリンピックで日本の醜態をさらけ出さなくても済むように頑張ってもらいたいものである。

 

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保健所のICS

災害対応の業務における問題
・市役所と保健所でマニュアルの内容が異なる。 (方針が異なって調整されていない。)
・情報が来ない。
・連絡を取ることもままならない。
・上からの指示が来ない。
・自分たちの役割がわからない。
・市でも保健所でも同じ内容の会議をしている。
・ここの責任者は誰だ? ・A病院はいっぱいなのに、B病院は患者がいない。 (資源の活用アンバランス) などなど

災害時に起きる問題の 大部分は、 技術・知識の問題ではなく、 管理の問題です。

情報源:ICS理論から入る 危機管理調整システムの理解 – 全国保健所長会

ネット上にあるICS関係の資料は、誤解が多く正しく理解していないものが非常に多いのだが、この資料は、正しい理解に基づいた非常に良いプレゼンテーションだと思う。ICSは、アメリカの真似をしてICSごっごをしたところで何かが直ちに改善するというようなものではないので、このプレゼンテーション資料にあるようにその背景にある理論を学び、なぜ、このような仕組みを標準化することが合理的なのかを理解し、自分たちで、自分たちの組織に合わせて、仕組みを構築することが非常に重要である。

保健所や病院は、災害時に大混乱をする最前線であり、たぶん、現場でのマネジメントの重要性が理解できるのだろう。この資料からは真剣さが感じられる。もっと、このような理解を促進する必要がある。

 

 

危機管理指針充実のための視点

危機管理指針充実のための視点

10年近く前に消防庁から地方公共団体に対して示されたガイドライン。内容は非常によく整理されているのだが、地方公共団体側は理解できているのだろうか。

見せかけとしての訓練では不十分

NHKなどでの報道を見ていると、相模原での事件を受けて全国の障害者施設で不審者に対応する訓練が始まっているようだ。確か2001年に発生した大阪の池田小学校での事件の後もそうだった。多くの小学校で警察官の指導を受けながら不審者対応訓練を実施していたように記憶している。訓練を実施することは必要なのだが、問題はその想定とシナリオ、つまり、今回は障害者施設、10年前は小学校というように、事件と同じ施設が狙われているというシナリオに基づく訓練ばかりが行われていることである。日本では、何か事件や事故があると、あまり意味がないということがわかっていても、見せかけを作るためのパフォーマンスとしての訓練が行われることが非常に多い。

正直言って、今回の犯人が無罪放免されて留置場から出てくることでもない限り、全く同じパターンで狙われるなどという確率は限りなくゼロに近い。池田小事件のあと、同じような事件が小学校で発生しただろうか? 全くゼロだったはずである。今回の犯罪は、過激派集団による組織的な犯罪ではなく、いわゆる「ローンウルフ型憎悪犯罪」である。これが組織的なものであるならば、同様なシナリオが発生する可能性は確かに高いが、今回のパターンは全くの個人によるものであって理由もターゲットも独特なものであるので、全く同じパターンの発生確率は極めて低い。

ただし、今回の事件が、人々、特に障害者施設で働いている方々のリスクパーセプション(リスク認識)に変化を与えたことは間違いない。従って、障害者施設の方々の不安感が高まるのは当然であり、何ら不思議なことではない。しかし、実際には、その犯人(リスク源)がすでに逮捕、すなわち除去されている。必要以上に障害者施設の方々の不安を煽るのではなく、障害者施設の方々に対する説得力のあるリスクコミュニケーションが実施されれば、障害者施設の方々のリスク認識、言い換えれば不安を和らげることはできるはずである。

ところで、今回の事件と同じシナリオが発生する確率は極めて低いのだが、他方、日本でも、無差別殺傷事件は多発している。右の表は、7月27日付日経新聞電子版からの引用であるが、同記事にもあるように、これらは、多かれ少なかれ、社会に対して何らかの反感を持つ「ローンウルフ」が過激化した「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」である。欧米のテロと違うのは、宗教的なものでも組織的なものでもなく(オウム事件を除く)、銃を使ったものでもないということぐらいである。表から見ても、同じシナリオで発生しているものはないことがわかる。それは、それぞれのリスク源である行為者本人が逮捕されているからである。

このように全てパターンが異なる場合どうすべきか。これは「オールハザード」と呼ばれる対応手段を準備しておくしかないということになる。「ハザード」とか「リスク源」とか「脅威」など、いろいろな言葉が氾濫しているのだが、防災分野ではリスク源をハザードと呼び、セキュリティの分野などではそれを脅威と呼んでいるだけであって、いずれも、好ましくない結果をもたらしかねない根源的な要因である。

今回のような犯罪の場合はハザードと呼ぶよりも、脅威と呼んだ方がよいのかもしれない。その場合、どのような脅威に対しても効果的に対応する手段ということになる。そんなことが可能なのかと瞬間的には誰もが思うだろう。しかし、アメリカなどで発達している「オールハザード」という考え方は、何のことはない、お客様からのオーダーメードによる特注品の製作工程と同じである。トヨタのジャストインタイム工程と同じことだとも言える。(注:「オールハザード」という考え方は、全てのシナリオを詳細に事前に予測して災害の発生を予防するという考え方ではない。逆に予測しきれなかったシナリオに対して事後的に迅速かつ柔軟に対応して被害を最小化できるよう要所要所を標準化したマネジメントシステムである。)

ある犯罪者は、銃を持っているかもしれないし、他の犯罪者は包丁かもしれない。ある犯罪は、複数人のグループによるものかもしれないし、他はローンウルフかもしれない。銃を持っている犯罪者にナイフで対抗するのは、B29に竹やりで対抗しようとするようなものだし、組織的な犯罪にひとりで立ち向かうのもアメリカ映画に出てくるヒーローのような力を持っている者でなければ無謀である。つまり、個々の脅威に対応するために必要な道具や人数、組織、作戦(これらを総称して「資源」と呼ぶ。)は、全てのケースにおいて異なるということである。

ではどうするべきか。答えは、資源と機能、資源とプロセスを完全に分けたマニュアル(「インシデントマネジメントマニュアル」)を作っておき、そのマニュアルに習熟しておくということである。しかし、実は、このように分けて考えるということが意外と難しい。往々にして、我々の作るマニュアルというのは、「誰が何をする」、「何によってナントカする」、「どの組織が何をする」、「次の仕事は誰がする」などとように資源と機能、資源とプロセスを明確に紐づけて固定的にしてしまうのだが、これが諸悪の根源である。重要なことは、目的を達成するために必要な資源を柔軟に選択することである。銃を持った侵入者がいたとし、目の前にナイフしかなければ、無謀な行動をせず、外部に支援を要請する方がよい。ではどのように外部に支援を要請すべきか、このようなプロセスを明確にしておけばいざというときの現場の混乱はある程度避けられる。

どのような脅威が発生したのか、まず、把握する(敵は何人、敵の武器は何、など)。それに対応するための資源は手元にあるのか、なければどこにどうやって支援を求めるか、現場ではどのような立場の人(誰がという特定の人物名ではなく、「当直長」「その場に居合わせた人の中で最上位の人」などのように柔軟性を持たせておく)が指揮者になって当座の意思決定をするのか、などをあらかじめ決めておき、資源選択の訓練や支援要請の訓練をしておく、そして、このようなマニュアル作成と訓練を今回事件のあった障害者施設だけではなく、様々な組織で実施しておくことが重要だと思われる。なお、オールハザードの考え方を徹底し、作り方さえ間違えなければ、今回のような犯罪リスクのみならず、災害リスクなどにも対応できるはずである。

日本では、「訓練をやりました」という「アリバエ作りのための訓練」、言い換えれば「見せかけ」の訓練が多すぎる。日本は基本的に村社会文化に根差しているため、みんなの和を維持することに過剰に神経を使い、喧々諤々と意見を述べながら訓練や議論を繰り返すのは難しいのかもしれない。必要なのは現実を重視し、熱のこもった議論をしながらマニュアルを作り、その内容の確認と改善のために訓練を実施することなのだが・・・。

 

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災害対応はトヨタのジャスト・イン・タイム方式で

地震発生から10日あまりが経つが、テレビ、ラジオ、新聞等で目立つのは「今被災地で必要なものは何か?」という議論である。専門家なる人物がテレビに出てきては、現地ではあれが足らない、これはもういい、こうしたほうがいい、などなどと自由活発な議論をする。それはそれで結構だが、これらはその一部の先生方が現地へ赴き、ごく一部の人たちから見聞きした、非常に断片的な情報に基づくものであって、決してマクロ的な全体を代弁したものではない、という点を我々は認識しておく必要がある。そうゆう人もいるだろうし、そうではない人もいる、ということであり、人のニーズというのはそんなに画一的なものではなく、多様なものである。必要な情報とは、Aの状況の人が全体の何割ぐらい、Bの状況の人が何割ぐらい、Cの状況の人が何割くらいだ、というおよそでもいいから全体を推測した情報だ。こうゆう情報を専門家なら統計手法を駆使して迅速に発表してもらいたい。現地で1人2人の話を聞いてその話をテレビで代弁することぐらいなら誰でもできる。マーケティングの手法を駆使してもらいたいものである。

そして、このような需要予測というものがほんとうに正確にできるのであれば、政府のプッシュ型支援なるもの、言い換えれば政府による計画的配分で必要十分ということになるのだが、正確な需要予測など災害という大混乱の中では実際には非常に難しいということは容易に推測できる。ではどうすべきか。それが、ここで述べるジャス・イン・タイム方式、すなわち、トヨタのカンバン方式を採用するということである。後工程から前工程に対する要請主義、プル型といってもいい。

資源配分は「最適に配分する」ことが重要なのであって不足してはいけないが、多すぎてもいけない。現地ではすでに食料品などの支援物資は避難所が置き場に困るほど届いているらしいが、このように余分な物資が避難所を占有してしまうと、その分、人の避難スペースが減少する可能性だってあるだろう。これらは経営学でいうところの「在庫」であり、在庫とは無駄な費用である。これらはスペースも無駄にするし、お金も無駄にする。余計な物資の運搬に運用業者等の人員が割かれれば、これらの人員が他の必要な物品の運搬に割り当てることができたであろう時間(これは機会費用「Opportunity Cost」であってやはり一種の「費用」である。)をも浪費する。このように我々は災害時であっても常に最適配分を意識しなければならない。

上記の議論はおおむね食料や住居、生活物品などのような物的資源の分配に関するものだが、災害が発生してから収束するまでの様々な問題を解決するために現場はさまざまな資源を必要とする。資源は、目に見える物品や燃料などの物的資源だけでない。現場に入る自衛隊や消防のような救助隊の人も資源である。人的資源(Human Resource)である。物の購入等に必要なお金も資源であるし、人や物の割当を決めるために必要な情報も資源である。「人」「物」「金」「情報」これらは全て経営学で経営資源と呼ばれる「資源」である。これらの資源を目的を達成するために如何にして効果的に割り当てるか、これを決定し、その効果を継続的にモニタリングして、必要に応じて継続的に改善していくための仕組みがマネジメント・システムと呼ばれるところのものである。従って、まず、必要になってくるのは、決定したり、モニタリングしたり、改善するための「プロセス」である。どんなマネジメントシステムでもまずプロセスをきちんと定義する。もっとも単純化された基本的なプロセスはPDCAサイクル(PLAN-DO-CHECK-ACTION)である。実際には目的に応じてこれらのプロセスが更に細分化されて定義されている。

そして、このプロセスというフローの中で目的の達成に必要な機能(ファンクション)を決め、それらの各ファンクションに対して、人、物、金、情報といった経営資源を割り当ててていく。今回の地震では市庁舎などの防災拠点が地震で倒壊の危機にさらされ使えなくなってしまった、というニュースがあった。これは、防災拠点( 欧米では「EOC(Emergency Operation Center)」と呼ばれている)というファンクションに市庁舎という資源を割り当てていたものだが、災害のマネジメントでは、あるファンクションに特定の資源のみを固定的に割り振っておくことは望ましくない。日本の防災計画では、往々にして特定の資源を固定的にあるファンクションに紐づけている例が多いが、このようなことをすると大概予期せぬ事態に遭遇して身動きがとれなくなる。人という人的資源の場合も同様である。ある特定の人の仕事(つまりファンクションである)を固定的に防災計画の中で規定してしまうと、その人が何らかの事情でいなくなるとそのファンクションが提供されなくなる。必要なのはファンクションであって、特定の人や物ではない。災害対応の指揮官とてもケースバイケースである。米国などでは最初に現場に到着した人が指揮官になるとだけ決まっており、「誰が指揮官をする」とは決められていない。決めることなどできない。

ファンクションと資源の関係は、防災計画では柔軟に考えておかなければならない。実際には、災害が発生してから資源の割り当てを考えざるえない場合がほとんどである。事前に固定的な資源配分を防災計画で決めてしまうことは望ましくない。例示的な意味合いに留めておくべきだろう。

このようにファンクションに応じて資源を割り当てていく方法を「ファンクショナル・アプローチ」という(詳細:「危機管理におけるファンクショナル・アプローチ」参照)。

災害が起きる前にこのファンクションを定義し、日本国中のみんなが共通理解をもっておくことができれば、臨機応変に組織が編成されたとしても、各自の役割をすぐに理解することができるし、代替資源を供給することも容易になるだろう。また、プロセスがきちんと定義されていれば混乱する災害の中でも必要な作業を漏れなく、ダブりなく進めていくことができるだろう。

そして、この仕組みを効果的に動かすためには、各プロセスの中で流れる情報の定型フォーマット(例:米国のICS各様式)を決めておくこと及び各資源のチェックインを管理すること(米国では救助隊や支援物資といったあらゆる資源をStaging Areaという場所にチェックインさせて一旦プールし、そこから必要なだけピックアップしていく)が極めて重要になる。これは、言い換えると災害対応というマネジメントシステムをトヨタのカンバン方式(Just In Time(JIT)方式)のようにするということに他ならない。災害対応版サプライ・チェーン・マネジメント(SCM)と言っても過言ではない。トヨタのカンバン方式では、カンバンという定型フォームを各製造工程(プロセス)の中で行き来させることによって、擬似的な注文生産のような工程を構築し、在庫を極限までなくすことに成功して、世界が注目したマネジメント・システムである。筆者が10年前米国のGWUで米国流危機管理を学んでいたとき、あるFEMA OBの教授が、「Just-in-Time !」「Just-in-Time !」と強調していたことを思い出す。あの先生は筆者が日本人だということ見て、「これはおまえの国から学んだことなんだぞ」と言いたかったのだろう。しかし、我が国ではモノづくりでこそJITが根付いたかもしれないが、それを災害対応に応用するなどどいうことは、思いもよらないことだろう。そんなこと言い出した途端に「災害対応と自動車の製造を一緒にするな!」と言われそうだ。よく考えてみればどちらもマネジメント・システムの問題であり、目的やアウトプットが異なるだけであって、自動車のドアやエンジンなどの部品の代わりに、First Responder(自衛隊・消防・警察等)、DMAT、NPO、ボランティアや支援物資という部品を投入して、一定のアウトプットを産出するための工程に他ならないのだが(災害は千差万別なのでまさに特注の注文生産工程が必要だ)。【「人間は部品ではない!」と怒る人も恐らくいるだろう。しかし、経営科学という観点では、部品=資源であり、人=人的資源=資源である。従って、部品=人である。この点を割り切って考えていかないと仕組みの改善はできない。】

なお、最近の災害ボランティアは、現地のボランティア受付センター(米国のStaging Areaに相当する)で登録後(要するにチェックインである)、ニーズがあるまで待機させ、必要に応じてプールされたボランティアを必要としている家庭などに派遣するという手法をとっているが、これはまさにトヨタのカンバン方式でいえば、後工程が前工程に必要なときに必要なだけ必要な部品を取りにいっているのと同じことである。20年前の阪神大震災やナホトカ号油流出事故のときは、ボランティアの管理ができていなかったため、ウロウロしていたボランティアがかえって現場の邪魔になっていたことを反省して、現在のような仕組みになったのだろう。言い換えれば、ボランティア団体の方が、一歩先にいっており、政府部門の方がまだ改善されていないということになる。

以上述べたことは災害対応(インシデントマネジメント)を標準化するということに他ならず、我が国の災害対応の仕組みの中で決定的に欠けている部分であり、今回の地震の場合でも全ての問題は「最適な資源配分をもたらすための仕組み」の欠如という課題に帰結する。

マネジメントシステムが標準化されていれば様々な資源配分がもっとスムーズに、かつ、最適に実施されるはずである。災害対応について考える前にトヨタのカンバン方式について学んでみてはどうだろうか。

参考図書:トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして・・・ 大野 耐一

 

~ICSとはトヨタのジャスト・イン・タイム方式を災害対応に応用したものである~