通常活動とインシデント

我々は、日々、職場に行って仕事をし、家庭では勉強や余暇を楽しみ、そして、朝昼晩と食事をし、夜間は睡眠をとって体を休める。これらを「活動(Activity)」と呼ぶことにする。活動には、基本的に何かの目的があるが、スライド2それらは、明確に意識されている場合もあれば、無意識的な場合もある。また、短期的な満足を目的にしたものもあれば、長期的なものもある。更に、同じような活動に見えても、その目的は、人によって認識や理解が異なることもある。しかし、全ての活動には必ず何らかの目的があり、その目的を達成するために、何かがインプット(入力)され、それらを使って、何かがアウトプット(出力)されている。

職場での活動を「事業活動」、家庭で勉強や余暇を楽しむ活動を「私的活動」、食事や睡眠をとる活動を「生命活動」等と呼ぶこととすると、最もベーシックな活動は、「生命活動」である。人の生命活動では、食事や睡眠等がインプットされ、考えたり、体を動かしたりするために必要な基本エネルギーがアウトプットされている。「事業活動」では、人的資源やお金、材料等がインプットされ、商品やサービスがアウトプットされているし、「私的活動」でも、旅行やスポーツ、読書等で余暇を楽しむ行為がインプットされ、仕事等をするために必要な活力や能力等がアウトプットされている。

スライド1我々が日々営んでいる活動は、複雑に連関しており、ある活動のアウトプットは、別の活動のインプットになる。例えば、車の部品を作るという事業活動のアウトプットである部品は、完成車を作るという事業活動のインプットである。また、人の生命活動のアウトプットである基本エネルギーは、その人が携わっている事業活動のためのインプットであるし、ある事業活動のアウトプットである食料品は、人の生命活動のためのインプットである。

そして、これらの活動は、時として、事故や災害、病気、犯罪等によって阻害されたり、中断や停止を余儀なくされる。このように、何らかの活動を阻害し、中断や停止させるような出来事を「インシデント(Incident)」と呼ぶ。スライド1インシデントには、様々な種類があり、また、その規模も時と場合によって大小様々である。例えば、ある人が乗用車を運転していたとき、大型トラックと正面衝突して、車は大破、本人も重症で病院に救急搬送されたとしよう。これは、「車同士の正面衝突」というインシデントによって、運転者の生命活動が阻害され、危機的な状況に陥ったということである。もし、死に至るような事態になれば、その影響は甚大であり、その人が関わっている私的活動や事業活動の全体または一部も停止する。なお、このインシデントによって阻害される活動は、運転者の生命活動だけではない。道路が警察による実況見分などのために封鎖されてしまえば、「当該道路を走る車による輸送活動」という一種の事業活動も一時的に阻害されることになる。

正面衝突とまではいかなくとも、車をバックさせたときに電信柱にぶつけて車のバンパーをヘコましてしまったというような軽度の事故も「ちょっとした自損事故」というインシデントであることには変わりない。この場合、運転者には何ら怪我がなかったとしても、車が損傷し、その修理に1日かかるとすれば、その車によって実施されていた活動が、その間、一時的に阻害されることを意味する。

ところで、時には、事故が発生する直前に急ブレーキを踏んで衝突を回避できることもある。この場合、運転者には怪我もなく、車にも何ら損害はない。しかし、これもインシデントである。このような場合、一見、如何なる活動も中断や阻害されていないように見えるが、この急ブレーキによって、予定到着時間に若干の遅れが生じていれば、やはり、当該車による活動がその間だけ阻害されたことになるからである。

逆に東日本大震災時のように大津波に多くの町が同時に襲われ、多数の死傷者や物理的な被害を出すような出来事もインシデントである。このような場合は、多くの人の生命活動が危険にさらられ、多くの企業の事業活動も中断され、加えて、人々の日頃の私的活動も通常通りできなくなってしまったということであって、同時多発的に多くの活動が阻害され、町や地域全体が危機的な状況になったということである。

なお、インシデントによって、阻害されたり、中断や停止させられる活動は、必ずしも、人間が自ら行う活動とは限らない。機械が自動的に行う製造工程やコンピューターシステムなどの物を故障させたり、コンピューターの中の情報を盗むウィルスに感染するような出来事もインシデントである。

いずれの場合でも、ある活動のアウトプットが必ず他の活動のインプットになっていることを考えれば、インシデントの発生によって、ある活動のアウトプットが減少すれば、連鎖反応的に他の活動のアウトプットも減少していくことになる。従って、インシデントが発生した場合には、そのような連鎖反応的な拡大を防ぐための迅速な対応が必要となる。


(NOTE)  インシデントの定義

分野によっては、インシデントの意味が狭く捉えられたり、インシデントとアクシデントが区別されている場合がある。例えば、医療分野では、誤った医療行為などが患者に実施される前に発見されたもの、あるいは誤った医療行為などが 実施されたが、結果として患者に影響を及ぼすに至らなかったものがインシデントであり、医療行為の中で患者に傷害が及び、既に損害が発生しているものはアクシデントと言われる。

航空分野では、国際民間航空条約(シカゴ条約)第13附属書にて、航空機の安全な運航に影響を与える出来事のうちアクシデント以外のものがインシデントであり、実際に乗客や機体に損害を出してしまった出来事はアクシデントと呼ぶとして明確に定義されている。インシデントの例としては、航空機同士のニアミス、機内での煙の発生や気圧の異常低下、発電機の故障、オーバーランなどがあげられる。

更に原子力分野でも、IAEA(国際原子力機関)が発行している”IAEA Safety Glossary” に定義があり、原子力災害を、小規模なものから順に、Level 1 (anomaly)、Level 2 (incident)、Level 3 (serious incident), Level 4 (accident without significant off-site risk)、Level 5 (accident with off-site risk)、Level 6 (serious accident)、Level 7 (major accident)の7段階 に分け、Level 2と3をインシデント、Level 4以上をアクシデントと呼んでいる。

これらとは対照的に防災や事業継続マネジメント(BCM)の分野では、インシデントとアクシデントの区別がない。例えば、事業継続マネジメントシステムの規格を定めたISO22301では次のような定義がある。

Incident = “Situation that might be, or could lead to, a disruption, loss, emergency or crisis”  (ISO22300(2.1.15)) 「中断・阻害、損失、緊急事態又は危機になり得る又はそれらを引き起こし得る状況」

上記を素直に読めば、やはり、実害が実際に発生する前の小規模な出来事を指すようにも解釈できるが、実際問題として、小さな災害がまた別の災害を引き起こし、大きくなっていくことが常であるので、実害の有無に関わらず、すぐに消し止められた小火のような出来事から大津波が一気に町を破壊してしまった東日本大震災のような出来事まで、包括的に全てインシデントと呼ばれる。米国でも国としての災害マネジメントのシステムは「National Incident Management System」と呼ばれているが、ここでいうインシデントの意味は、ISOの定義に等しい。

我が国では、インシデントが「危機」と訳されている場合もあるが、これにピッタリと相当する日本語が存在しないというのが実情である。東日本大震災のように最初から大災害のものもインシデント、日々発生しているような交通事故、医療過誤、航空機のニアミス、火事、工場での生産ラインの停止、製造ラインへの農薬混入、パソコンのウィルス感染等も全てインシデントと呼ばれる。なお、適当な日本語が存在しない以上、インシデントは外来語として取り扱われるべきである。

なお、医療事故や航空機事故、原子力事故のように災害の種類が限定される場合には、インシデントとアクシデントの違いをその規模に応じて定義することも可能であるが、地震や津波等の複合的な災害をイメージする中では、結果の規模のみによって、そのような区別を定義することは極めて難しい。英語にも、災害や事故を意味する類義語として、Incident, Accident, Disaster, Distress, Emergency, Crisis等があるが、概念としてはなんとなくイメージすることはできても、複合的な災害に対応するための制度的なマニュアル等の中で、種類を限定して規模に応じた区別をすることは難しく、また、そのようなことをする意味もあまりなければ得策でもないので、欧米でも、これらを包括的に”Incident”と呼ぶことが最近は多くなっている。筆者も、インシデントとアクシデントとの区別等はしないで、全てを「インシデント」と呼ぶ。